新聖書読解術 今年こそ 聖書とともに 主とともに
真実な主への応答として[後半]

☆ アブラハムに現された真実

 創世記一五章は、神の真実を学ぶうえで格好の教材。契約を何度も更新されながらいっこうに子が与えられないアブラハムは、幻のうちに主のことばが語られた際、あきらめの気持ちを主にぶつけます。すると主は「ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」と答え、彼を天幕の外に連れ出して、星空を見せるのです。あなたの子孫はこのようになる、と(現代の東京では使えない体験学習ですね)。

 アブラハムの応答はこうです。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(六節)。この「信じた」ということばは、「アーメン」の類似語で、神の語られたことばの有効性と真実さ(ことばが出来事になること)を認める態度。それはアブラハムの信仰の強さに無関係な、神の真実さゆえの応答です。だから彼は「天幕の外に」(自分の常識的信仰の枠外に)連れ出されたのでしょう。

 この逆説は重要です。神が私を通して約束の子孫を与え、全世界に祝福を与えられるというご計画の実現を信じきれない自分、その不信仰な自分を超え、不完全な私を用いて神がご自身の救いのご計画を成し遂げる、その神の真実さに信頼するのが信仰なのです。神の真実な愛は、人の罪深さや不真実さ、不信仰にはいささかも影響されません。使徒パウロは、この神の真実こそ信仰義認の根幹であるとして、こう語ります。「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ四・五)。がんばって信じるのとは別次元の、衝撃的みことばでしょう?

 神の真実は人の不真実に勝つ、その究極は、主イエスさまの十字架です。人がそれを信じる信じないにかかわりなく、まず主なる神が契約を真実に履行するため、御子イエスを十字架にかけ、罪からの贖いを達成してくださったのです。

 私たちはそれに応答するのみです。信じられない不信仰な自分を主にゆだね、私を根底から支える主に信頼して、十字架と復活の主とともに歩めばいいのです。

☆ 日本語聖書で文脈を

 聖書を正しく解釈するには、聖書原語をはじめとする特別な知識が必要で、それは専門家にまかせておけばよく、私たちは今日の私に必要な恵みと教訓を得られれば十分でしょうか? そんなことはありません。日本語聖書を繰り返し読み、文脈をとらえ、創世記から黙示録まで一貫して流れる「軸」や、随所に顔を出す「鍵語」を探し当てる旅に出るなら、必ずや発見があります。それを見つける楽しさの味をしめると、ますます読みたくなる上昇螺旋に入れます。聖書を倫理道徳の教訓集としてではなく、壮大な神の贖いの歴史(History)、神の物語(His Story)として読めば、罪から贖われた自分もそこに参与できるし、私において主がなしてくださった、いや今なしつつある私の物語を紡ぎ出すことができるでしょう。今日の私に、主はどんな真実を現してくださるのか、考えただけでもわくわくしますね。

☆ 分かち合いのススメ

 聖書は、イスラエル民族や初代教会などの信仰共同体にゆだねられ、読み継がれてきた誤りなき神のことばです。ですから、個人で読むだけでなく教会において共に学び、分かち合うときに、その輝きはがぜん増し加わり、驚くほど深く読むことができます。

 筆者の牧する教会でも、月に一度、礼拝後の約一時間、前月の通読テキストで各自が読んできた(はずの)聖書箇所から、数十節を選んで感想を分かち合います。聖霊が心を照らしてくださるからでしょう、参加者も驚くほどの深い聖書理解に導かれ、恵みを共有できるので、毎回がすばらしく感動的です! ぜひお試しあれ。

☆ たとえ続かなくても

 聖書を読めない日があっても、自分をさばかないでください。聖書は、「おつとめ」としてではなく、真実な主への応答として読むのですから……。

 不完全な私をあくまで愛する真実な主が共におられる、それがわかるなら、きっと読み続けることができますよ!