日本プロテスタント宣教150周年 その歩みから現代の教会が教えられること [1]

中村 敏
新潟聖書学院 院長

はじめに

 今年(二〇〇九年)が、日本のプロテスタント宣教百五十周年の記念すべき年であるとして、多くのイベントがなされています。確かに一八五九年にアメリカの宣教師  が禁教下の日本に上陸し、宣教を開始しました。

 しかし忘れてはならないことは、その前に日本の開国とキリスト教宣教のために、多くの祈りが積まれ、いくつかの先駆的な働きがあるということです。それがギュツラフの聖書翻訳であり、モリソン号事件(一八三七年)です。そして一八四六年から八年あまり、ベッテルハイムが琉球で伝道をしています。ですから歴史的には、一八四六年が日本のプロテスタント宣教開始の年です。

 ただ、彼の伝道は、一旦途切れてしまいます。教会形成につながる本格的なプロテスタント宣教は、一八五九年の宣教師達の来日によります。こうした事情を知った上で、今年を迎えるならば、今までのプロテスタント宣教を振り返り、これからの展望を探る、意義深い年となることでしょう。

日本のプロテスタント宣教の歴史的背景

 十九世紀は、欧米のプロテスタント教会にとって、何度も信仰復興(リバイバル)が起き、飛躍的に伝道が進展した、「偉大なる世紀」でした。この信仰復興の高まりの中で、多くの世界宣教団体が生まれ、アジア、アフリカ等で盛んに伝道しました。これらの働きについては、拙著『世界宣教の歴史・エルサレムから地の果てまで』(いのちのことば社)の第五、六章を参照していただければ幸いです。日本の宣教も、この信仰復興運動の波の中でなされたものでした。その信仰は、忠実な聖書信仰に基づくものであり、聖霊の導きを受けたものでした。

当時の日本の状況と福音を受け入れた人々

 一八五三年にアメリカのペリー提督は、アメリカ合衆国大統領の親書を携えて幕末の日本にやってきました。その結果ついに日本は開国し、一八五八年に日米修好通商条約が結ばれました。これに基づき、翌年アメリカの宣教師達が禁教下の日本(キリスト教解禁は一八七三年)に次々とやってきました。その中で、ヘボン、ブラウン、フルベッキ等が良く知られています。彼らは豊かな賜物を持ったすぐれた宣教師達であり、本国での恵まれた生活を捨てて、禁教下の日本に命がけでやってきました。このように初期の宣教師達は、福音を伝えるために、多くの労苦と犠牲を惜しみませんでした。彼らは日本語を学びつつ、英学を教え、医療宣教を行いました。そうした労苦の結果、日本人の回心者が次々と与えられました。宣教師達が始めた私塾はその多くが今日に続くミッション・スクールとなっています。

 注目すべきことは、初めに信仰を持った人の多くが士族、すなわち武士出身の人達だったということです。当時の日本で、士族の人達は人口の約五パーセント位しかいません。あとは農民や商人でした。アメリカからやってきた宣教師達は明治の初期ごろ、キリスト教の伝道者としてよりは、西洋の近代文明の紹介者として受けとめられました。彼らの周りに集まったのは、向学心に燃える士族出身の青年が多く、しかも明治維新で没落した旧幕府出身者が目立っています。

 当時の日本は、「文明開化」「富国強兵」をスローガンに、盛んに西洋文明を取り入れました。ですから宣教師達が西洋文明を媒介にして伝道したことは、士族等これを求める人々にとって極めて有効なものでした。しかし、このことは同時に、多くの一般庶民にキリスト教は西洋の宗教、インテリの宗教というイメージを植え付けました。その後の伝道の仕方もあいまって、プロテスタント教会は大都市中心の中産インテリ層、学生の宗教という性格が強く、庶民層に広く浸透するものとはなりませんでした。

 よくアメリカの教会は「賛美する教会」、韓国の教会は「祈る教会」、日本の教会は「学ぶ教会」と言われます。日本の教会の長所は知的水準が高く、良く学ぶことにあるといえます。しかしその反面、信仰が知的な理解にとどまり、なかなか生活や心の深いところにまで届いていかない弱点があります。そうした知的偏重から来るもろさが、戦前の天皇制軍国主義への妥協の原因となったといえます。