日本人の精神風土と福音宣教 宗教心にあつい人々
松岡 広和
単立 のぞみ教会 牧師
「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。」(使徒一七・二二)
私はあるとき、修験道が盛んなところとして有名な地域の教会に、集会のご用のお招きをいただきました。一般的に、そのような地域は伝道が難しいと思われがちなのではないでしょうか。
ところが、行ってみてわかったのですが、その地域は、人口に対する教会数が決して少なくないということでした。またその集会にも、かなりの方々が来てくださり、近隣の教会からも何人もの信徒の方々が来られていました。
その教会の牧師先生のお話によると、その地域の人々は、修験道という信仰に慣れ親しんでいるがゆえに、かえって、どのような信仰形態にも心が開かれているということでした。都会などでは、どんな信仰であっても、警戒したり、軽蔑したりする人が多いですが、そこではそのようなことは少なく、受け入れるかどうかは別としても、一応は、福音の言葉も聞いてくれる傾向にあるそうです。むしろ一番問題なのは、過疎が進んでいるということだと言います。
今までの日本の教会は、仏教や神道などの他の信仰は、頭から「偶像礼拝」として攻撃してきた傾向があります。確かに、「偶像礼拝」は避けねばなりませんが、あまりにも敵対意識を表面に出しすぎていたがために、もともと福音を聞いてくれるはずの人も、反感を抱くように、教会側が仕向けた結果になっています。もちろん最近では、教会でもそのようなことは少なくなってきているでしょうが、一度できあがった傾向は、いつまでも影響してしまいます。
聖書では、言うまでもなく、「偶像礼拝」を避けるよう、多くのみことばが説かれており、偶像礼拝者に対する厳しいさばきが記されています。しかし、よくみことばを見ると、その神の厳しさは、イスラエルの民だからこそ臨んでいるのだ、という事実がわかります。イスラエルの民は、はじめから神を知っており、その恵みを体験している民族です。神と契約を結んだ特別な民族です。その民が、神を知っていながら、他の偶像に走るということは、まさに、「浮気」であり、聖書では、さらに厳しく「姦淫」という言葉が使われているほど、大きな罪です。
しかしその反面、イスラエルだからこそ、厳しく叱責すれば、神を思い出し、悔い改めて帰ってくる可能性もあるのです。実際に、悔い改めて、神に立ち返ると、イスラエルは祝福されました。つまり、その叱責も、神の愛なのです。
ところが、異邦人はイスラエルと違います。初めから神も知らず、契約もありません。だから、目の前にあるありがたそうな偶像に、何気なく自然と手を合わせているのです。まさに、日本人がそれです。そのような異邦人の偶像礼拝に対する教会側の姿勢は、イスラエルのそれとまったく同じでよいのでしょうか。
聖書で、まったく神様を知らない異邦人に福音が説かれている最も詳しい記述が、使徒一七章にある、パウロがアテネの人々にメッセージした箇所です。アテネの人々も、日本人と同様、初めから神様を知らない異邦人です。
ところが、その人々に向かって、パウロは、開口一番、彼らの宗教心をほめるような言葉を語っているのです。その宗教とは、もちろん、彼らが偶像を拝んでいることを指します。
ここに、すぐれた知恵があります。パウロは、彼らの表面的な偶像礼拝にではなく、その心の中にある、「何者かにすがりたい」という宗教心に目をとめたのです。そのような「飢え渇き」は、アテネの人々に限らず、日本人もすべての人々が生まれながらに持っているものです。そして、その「飢え渇き」を本当に満たすものとして、パウロは福音を語っているのです。
初めから神様を知らない人々に、いきなり頭から「あなた方の拝んでいるものは偶像であり、意味のないものだ。悔い改めなさい」などと叱責したら、相手は、自分たちが大切にしているものをけなされたと腹を立て、それ以上、耳を傾けてくれなくなってしまいます。イスラエルの民だからこそ、叱責による悔い改めがあるのであって、異邦人に対しては、叱責は逆効果なのです。
日本人の心の中にある宗教心も、十分、福音に直結できるものであると、私は確信しています。日本の多くの人々も、本当の信仰を心の中では求めているのです。問題なのはその説き方です。みことばから学びつつ、知恵をもって福音を伝えていきたいものです。