時代を見る目 100 「lex orandi」と日本の教会
井上 義
日本同盟基督教団 等々力教会 牧師
「ちち・みこ・みたまのおおみかみに」と歌う頌栄の歌がある。「おおみかみ」とは「アマテラスノオオミカミ」という場合の「大御神」に他ならない。無論、「神」という言葉自体がすでに神道的なもので、そういった神道起源の信仰の言葉にあまり目くじらを立てても仕方がないとの声もあろう。しかし戦前戦中の国家主義的文脈において三位一体の神と「大御神」たる天皇との統合が目論まれた歴史を体験した戦後の教会は、三位一体の神を「大御神」と呼ぶことはしなくなったように思える。ところが、賛美歌の歌詞にはそれが残っているのだ。問題に感じるのは、祈りや説教では使えない言葉を、賛美歌においては平気で歌ってしまうというメンタリティーである。特に礼拝の中の「頌栄」ということであれば、それは礼拝の一つの頂点をなす重要な言葉である。筆者は「ちち・みこ・みたまのおおみかみ」の名による祝祷をすることに抵抗を感じるのと同様の理由で、この頌栄の歌を礼拝で歌うことを控えている。古代教会においては、祝祷の言葉がキリスト論における正統信仰と異端とを見分ける試金石となった。すなわち礼拝における祝祷や頌栄の言葉は、ある意味では偶像礼拝の問題と密接な関係を持つものとされてきたのである。そこに「アマテラス」の匂いを入れたくないというささやかな抵抗だ。
「祈りの法は、信仰の法」(”lex orandi, lex credendi”)というモットーがある。ここでいう「祈り」には礼拝や賛美のような信仰の実践が、「信仰」には教理や神学のような信仰の言葉が含まれており、つまり礼拝は信仰の形成に重大な影響を及ぼすということである。またアウグスティヌスは「歌うことは二度祈ること」と述べたといわれるように、歌には、言葉の増幅という重大な機能がある。歌と共に繰り返し心に刻み込まれた信仰の言葉は、歌っている人々、それを聞いている人々の「霊性」(Spirituality)に、少なからぬ影響を与える。とりわけ説教の言葉の十分な理解が困難で、かつ歌をすぐに覚える幼い子どもにとっては深刻な問題だ。そのような意味では、教会の歌は祈りや信仰告白以上に、教会の信仰形成にとって重大な意味を持つのかもしれない。日本の諸教会においても、教会の歌が、教会の信仰告白、教育、そして霊性の育成と密接に結びつくものであることが深く意識され、積極的な取り組みがなされることを期待したい。