時代を見る目 102 高齢化社会(2) 「老人たちをどうする」
野田 秀
東京フリー・メソジスト 桜ヶ丘教会 牧師
新聞の片すみに、こんな文章を読んだ。「老人たちよ、どこへ行く。そういう声が高くなってきた。それに重なって、若者たちよ、老人たちをどうする、そんな声もいつのまにか社会の声になってきた。……」
この「老人たちをどうする」ということばを、教会の若者たちにも考えてほしい。
社会の高齢化現象は、そのまま教会内の現象でもある。老人たちのいない教会は少ないに違いない。その教会の中の老人たちに対して、若者がどう考え、どうしているかということである。「若者たちよ、教会の老人たちをどうする」ということなのである。
もともと若者は若者たちで固まりやすい。話が合うからである。半世紀ほども年齢差がある人たちと話が合わないのはふしぎではない。その結果、教会の中で若者が老人に関心を払うこともなく、名前も知らないということになりかねない。
どうだろう。教会にきている高齢者たちの名前を知っているだろうか。話しかけたことがあるだろうか。彼らの寂しさや悲しみを想像したことがあるだろうか。
教会は若者と老人がいっしょにいることができる、今の社会では比較的めずらしい場所である。だから、たまにでよいから、老人に話しかけ、たまにでよいからその話に耳を傾けてほしい。
こんな歌を見たことがある。
「あなた方古き世代がかくなせり世直しするまで死ぬな」と言われぬ
ここでは高齢者の社会責任が問われているのである。こんなものをつきつけられたら、いっそ早く死にたくなるかも知れない。しかし、無関心でいられるより、関心をもたれ、責任を追及されるだけまだよいのかも知れない。
とにかく、せっかく同じ教会にいるのだから、自分よりも長く生きて来た人たちの存在を、神からのメッセージとして受けとめてはどうだろうか。
若者と老人が談笑するのを見たら、主は、きっとほほ笑み、喜ばれるに違いない。