時代を見る目 103 高齢化社会(3) 「老人たちはどうする」

野田 秀
野田 秀
東京フリー・メソジスト 桜ヶ丘教会 牧師

 新聞の片すみにあった「老人たちよ、どこへ行く。……若者たちよ、老人をどうする」ということばから、前回、教会の中での若者たちの高齢者に対する姿勢について書いた。今回は教会の中の高齢者について考えてみたい。つまり教会の中の「老人たちよ、どこへ行く」であり教会の中の「老人たちはどうする」である。

 高齢になって、礼拝出席がやっとであり、奉仕などはとてもという人は恐縮しながら言われる。「何もお役に立てなくて申しわけありません。」すると、牧師や周りの人はこう言うのである。「いいえ。礼拝に来ていつもの席に座っていてくださるだけで励ましになります。どうぞ祈りの奉仕に専念してください。」

 私も牧師だから例外ではない。たいていそう答えて来た。しかし、ここで改めて考える。本当にそれだけでよいのかと。

 高齢者はいたわらなければならないし、大切にしなければならないという思いからそういう対応が出て来るのであるが、そう言われると高齢者は何となく安心しそこに安住してしまうかもしれない。しかし、たとえ何歳であろうと、高齢者が忘れてならないのは自分の信仰の成長、霊性の問題である。礼拝に来ていつもの席に座っていればよいのではなく、みことばによって自分の心を探られることであり、周囲の温かい扱いに自分をごまかさない姿勢である。

 あれは失敗だったと悔いの残る問題や、あの人とはとうとう和解しないでしまったというような人間関係を、地上に残したまま天に帰ってよいのだろうか。自分に残された日々は、それらにきちんと始末をつけるためにあるのかもしれないと考え、そのために心にメスを入れていただき、新しい力を与えられる必要がある。

 老人になったから信仰の成長の必要はないと聖書は言っていない。そして、霊性は最後の一息まで息づいているものである。「高齢の皆さん。あなたにはまだしなければならないことがありますよ」と言いたい。教会も老人を単なるベンチウォーマーにしておいてはいけないと思う。