時代を見る目 105 初穂クリスチャン(2) 敵意が崩れるとき
神津 喜代子
日本バプテスト教会連合 大野キリスト教会主事
二十三年前、私は突然イエス・キリストに出会った。当時私は、いわゆる地域の顔役だった。よく飲み歩き、政治談義に明け暮れていた。当然家庭も子育てもおろそかになっていった。突然破局がきた。夫の怒りが爆発したのだ。それは深夜帰宅した私への一方的な離婚宣言だった。
呆然として寒い暗い部屋に明け方までうずくまっていた私は、とんでもないことを思い出した。イエス・キリストの十字架である。クリスチャンの友が、いくら私に馬鹿にされても、しつこく語り続けた十字架の話である。真っ暗闇の寒い部屋で私は生まれてはじめての祈りを捧げた。
祈りをはじめたとたん、こんな私を許してくださるのは神様だけだ、あの十字架の話は本当だ。そう確信した。「神様、ごめんなさい。こんな私のために……」私はいつまでもうずくまって泣いていた。そのときだった。肩にあたたかいものがふれた。……それは夫の手だった。「もういい、やりなおしてみよう。さあもうやすみなさい」。夫の声に怒りはなかった。神様は夫を戻してくださったのだ。ことばにもならない聖書も知らないはじめての祈りを神様は聞いてくださった。
しかし、夫はそれから二十三年間、ほとんど教会に来ようとはしなかった。私は表面上は何食わぬ顔で奉仕に励んでいたが、苛立ちと葛藤はやがて夫に対して敵意すら感じるようになっていった。そんな私に夫は、昨年暮れ、驚くべき言葉を突きつけてきたのである。
「俺が教会に行かない本当の理由を教えてやろうか。あなたを見ていると、キリスト教というのは、儀式としきたりだけに見える。あなたを見ている限り教会には行きにくくなるだけだ」。
そう言えば、受洗した年から初詣もやめた。正月飾りもやめた。節句の飾りも七夕もやめた。法事も墓参りも渋った。客が来ようと用事があろうと高熱が出ようと這うようにして礼拝に行った。私としては当然の行為だった。しかし、そこに彼はなんの価値も見出せなかったのである。
二十三年間何ということをしてきたんだろう。神様ごめんなさい。私はうなだれて泣き出した。そんな私を見ていた夫は言った。「たまには行ってみるかな……」久しぶりに聞く穏やかな声だった。そのときから、夫は礼拝に出席するようになったのである。再び奇跡が起きたのだ。