時代を見る目 106 初穂クリスチャン(3) 天来の友情を

神津 喜代子
日本バプテスト教会連合 大野キリスト教会主事

 最近、20年ぶりに元PTA仲間の友人から手紙をもらった。そこには「ことあるごとにあなたの友情を思い起こしています。私が人と接する基準は、あのとき、あなたが示してくれた友情です」とあった。お互いにはみ出し者の中学生の息子をもち、よく職員室に呼ばれた。そのとき、小さくなってうなだれる彼女の分まで、私は教頭や学年主任と激しい口論をした。今は私の息子も彼女の息子も成人し、よい家庭をもっている。

 友情かぁ……いい言葉だなぁ。そのとき、私は、突然一直線にイエス・キリストのまなざしに触れた気がした。「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15章15節)

 私の夫が23年目に、はじめて礼拝に行ったきっかけは、実は、友達になってくれた男性たちがいたからだと思う。時には食事に、時にはゴルフに、気軽に誘ってくださる。競争社会で肩書きやノルマにいたぶられてきた夫にとって、教会は、新しい友情の世界だった。

 悲しみや痛みを持って教会の玄関を入った時、肩を抱いて泣いてくれる友がいたらどんなに慰められるだろうか。教会に友がいる、その安心感と親しみは、決して妻や家族では間に合わない情感だろう。そして、クリスチャンが未信者の家族を教会に連れていく時、その家族の友となってくれる人がいたらどんなに心強く、嬉しいことだろうか。

 よく読まれている書物にジェームズ・フーストンの『神との友情』(いのちのことば社)がある。英語ではフレンドシップとなっている。「祈りは神との友情(神の友とされた交わり)から生まれる。この天来の友情こそ、本書が探求し味わおうとしているもの」と冒頭に記されている。

 天来の友情、それこそイエス・キリストの愛である。イエス・キリストが私たちを友と呼んでくださった大きな愛は、十字架によって明らかにされた。

 初穂のクリスチャンを大切にしてほしいと私は訴えてきた。狭量で一方的な切り口だったと思う。しかし、やはり敢えて言いたい。クリスチャンだけがもつ天来の友情を、まず初穂のクリスチャンに、そしてまだイエス・キリストを知らない多くの方々と分かち合ってほしい。