時代を見る目 110 主体性(1) ひとり子を犠牲にしてまで

野村 幸生
九州キリスト福音フェローシップ 香住丘キリスト福音教会 牧師

 クリスチャンでない方、教会に来られて間もない方、またはしばらく続けて来られている方からのよくある質問に「どうして神様は、人間が罪を犯さないように造らなかったのですか」「どうして食べてはならない実のなる木をエデンの園に生えさせたのですか」というものがあります。

 そのような質問に対する答えとして、私たちは「神様は、人間を人形やロボットのように造られたのではなく、自由意志を持つものとして造られた」という説明をいたします。

 しかし、私たちは、実際の信仰生活における人間関係に、どれほどこの自由意志、すなわち人形やロボットのようにではなく、主体性をもってみずから進んでことを行なおうとする姿勢を、重要なものとして、お互いに認め合っているでしょうか。罪の原因の説明として、自由意志や主体性を持ち出してくることはあっても、日常生活の中で、つまり現実の教会や家族における人間関係の中で、お互いの自由意志や主体性を認め合う信頼関係をめざしているでしょうか。

 神様は、あえて私たち人間に、自由意志を与えられました。そしてそれは、結果的には罪を犯す可能性のあることでした。しかもそのために、かけがえのないひとり子イエス・キリストを犠牲にすることになるのですが、それでも人間にその自由意志を与えられたのです。神様は、ただ単に私たち人間が、一方的に神様の思いどおりになるものとしてではなく、神様から独立したみずからの意志を持って、主体的に従うことを望んでおられるのです。

 つまり、ご自分のかけがえのないひとり子を犠牲にしてまでも、人間が、自由意志や主体性をもって生きることを重要なこととしてくださっているのに、どうして私たちは、教会や家族の中での人間関係で、何とか人を自分に従わせようとして、必要以上に「権威」というものを持ち出し「何でもいいからとにかく従え」と服従を強要するのでしょうか。

 聖書が教える信仰とは、神様の真実に対する、私たちの心からの応答ではないでしょうか。お互いの人格性、主体性を認め合う信頼関係を、私たちの間に、すなわち教会において、また家族=夫婦・親子の間に、はぐくみ育てていきたいものです。