時代を見る目 111 主体性(2) 子が教会を去る前に
野村 幸生
九州キリスト福音フェローシップ 香住丘キリスト福音教会 牧師
「お母さんはネ、次の試合、負ければいいと思っているの」。活発で明るい小学五年生の女の子が、ふともらしたことばでした。この女の子は、スポーツクラブに入っていて、彼女が出ることになっている次の試合は、平日にあるのですが、もしその試合に勝てば、次の次の試合は日曜日になっていました。
自分の子どもをなんとか教会に行かせようと、熱心なその母親は、もしわが子のチームが負ければ、その次の試合はもうなくなり、日曜日にわが子を教会に行かせることができると考えたのでしょう。そんな短絡的な母親の思いに、その子は気づいていました。
私がKGK(キリスト者学生会)の主事をしていた時、ある大学の聖書研究会で、どこの教会へ行っているかということが話題になり、ちょっと暗い感じで日ごろもあまり発言しない男子学生が、○○教会へ行っているとつぶやきました。その教会は、大学のために家を出て、今彼が住んでいる所からずいぶんと遠い所にある教会でしたので、あるメンバーが当然のことのように、「え~! どうしてそんな遠い所まで行くの?」と尋ねた時、彼がポツリとこぼしたことばが、「親が行けと言ったから」。
イプセン作の『人形の家』(岩波文庫)で主人公のノラは、夫のヘルメルにこう言います。「わたしも(パパと)同じ意見をもちました。もしほかの考えが湧くようなことがあっても、わたしはそれをそっと隠しておきました。パパのお気にさわると思ったからですわ。パパはわたしを自分の人形と呼びました。(中略)それからわたしはあなたのところへ、この家に入ってまいりました」(中略)「わたしはいまはもうそうは思いません。わたしは信じます、―わたしは何よりもまず人間です、あなたと同じ人間です」。
ノラは人間が人間として生きるために主体性の必要性に気が付き、この後、家を出ていきました。人間が人間として生きるためには、主体性はどうしても必要なものです。
子どもたちが主体性に目覚め教会から去っていく前に、親たちは、神が与えられた人間の本性―主体性に目覚めなければなりません。