時代を見る目 113 胸をはって生きる(1) 少数派であっても

吉澤 恵一郎
中四国地区キリスト者学生会 主事

 今春、何人もの学生がキャンパスから社会へ飛び立って行く。毎年の出来事ではあるが、学生伝道者は期待を持って祈らずにはいられない。社会のあらゆる分野に遣わされ、誠実に主の召しに応答していくキリスト者の生き方を抜きにして、わが国の福音化などありえないと私は思う。

 しかし、伝えられているように、不況による深刻な就職難の影響で学生たちのおかれている環境はまだまだ厳しい。特に私が関わっている地方大学の女子学生などは苦戦を強いられている。一方、クリスチャン学生のサイドにも当然問題はある。どこかで信仰を持って生きていくことに自信がないのだ。「クリスチャンの考え方なんて世の中には通用しない」と確信している。クリスチャン人口が一パーセントにも満たないこの国で、マイノリティであることのコンプレックスが染み付いているのだ。出て行く場所がないことも問題ではあるが、出て行くことができないということが重大な課題と感じる。では、本当に、私たちクリスチャンの考え方は、聖書が示す生き方は、世の中に通用しないのだろうか? そんなことはない。

 アブラハムは保身のために妻を妹だと偽った。その理由は「この地方には、神を恐れることが全くない」(創世記二十章十一節)ということ。信仰の人アブラハムでさえ、マイノリティ・コンプレックスに陥り、同じ過ちを繰り返してしまった。しかし、アブラハムの心配をよそに、神を恐れることが全くない地方の君主は、夢を通じて聖書の神の考えを見事に理解する。驚くことではない。聖書の示す生き方こそ、どんな時代であれ、どんな社会であれ、どんな文化であれ、通用するのである。キリスト者はそのような福音に生きるものとされたのではないか。

 神は、アブラハムを用いられた。神を知らない人を恐れていたアブラハムを用いられたのだ。だから期待しよう。同じ弱さを持つ私たちを用いてくださる主に。そして、この国のキリスト者の生き方が築く未来に。クリスチャンの考え方は世の中に通用するのだから。聖書が示す生き方は世の中に通用するのだから。クリスチャンこそ、胸をはってこの世の中を生きて行くことができるのだから。