時代を見る目 120 牧師館の子どもたち(2) 「いい子」の呪縛

大山 信子
日本メノナイト教会協議会 
白石キリスト教会 牧師夫人

 一般に「クリスチャン」と聞くと「敬虔な」というイメージを持たれるように、「牧師の子ども」には、ある一定のイメージを持たれがちです。その代表的なものが「いい子」だと思います。「神様のみこころどおりに育っているいい子」「社会の模範になるようないい子」「両親の言うことをよく聞くいい子」などです。

 それを敏感に感じ取って、そうなれない自分との間で悩む「牧師の子」は多いのではないでしょうか。幼いころから教会で育ち、心の中には「神様に喜ばれるいい子」になりたいという願いはあるはずなのに、プレッシャーの大きさに、その純粋な願いを見失ってしまう子どもが少なくないのは残念なことです。

 子どもの成長段階において反発は自然なことですが、牧師の子どもの場合、要求される水準が高いだけに、大きな反発となって表れることがあります。また表に出てこないで心の中でくすぶっていることもあります。その場合、親の立場を思って、押し殺している場合もあり、そちらのほうが根が深く、解決まで遠いかもしれません。私の場合もまさにそうでした。

 求められることの多い牧師の子どもたちは、一度「牧師の」という肩書きを下ろして、ただの「子ども」になる必要があります。

 私の願いは、この「子ども」が一日も早く「いい子」の仮面をはずしてイエス様と出会い、正しい自己像、新しいイメージを持っていきいきと自分の人生を歩み出すことです。彼らが、神様と教会を心から愛する者へと変えられていくことは、教会にとっても大きな祝福であることに違いないでしょう。

 「いい子」の呪縛を解く鍵は祈りであり、教会の懐の深さであると考えます。たとえ彼らが茶髪、金髪にしようとも、何か月も教会に来ていなくても、神様はだまって見守っていてくださるのですから、私たちも祈りと忍耐をもって待ち続けようではありませんか。

 彼らが教会に顔を出すときには、それだけで喜んでください。彼らにとって「教会」は「親の職場」でもあるのですから。