時代を見る目 123 国旗・国歌をめぐって(2) 飲み込まれる前に

岡田 明
都立高校勤務
日本福音キリスト教会連合 主都福音キリスト教会会員

 国旗と国歌を押し立てて、猛然と行動し始めた勢力があります。彼らは愛国心教育を叫びますが、その目標とするところは、国家のために黙って身を投げ出してくれる国民作りだと思われます。

 東京都ではこれを推し進めるため、「通達」を出しました。国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しない教員は処分するというのです。彼らの考える愛国心教育に対し、異議を唱える教員を排除するためです。石原都知事は「今、首をすくめて東京のやり方を見ている他府県は五年後、十年後に東京を見習う」と言い放ちました。石原氏はこのような方法で日本を変えていきたいようです。私たちクリスチャンは、教育やこの国の現状をどう考えますか。このような人たち以上に国のことを考え、祈り、行動しているでしょうか。

 率直に言って、日本の教会、クリスチャンは社会に対して傍観者になっていると思います。日曜日だけのクリスチャン、ウィークデイは「この世」の人なのです。価値観もダブルで、信仰が大事と言いつつ、学歴や肩書きがなければ不安なのです。この世には様々な社会問題があり、倒れている人たちがいるのに、自分は隣人になろうとはしない。信仰が内向き、交わりも閉鎖的なのです。教会の外の問題に目を向けようと誰かが言うと、「それは教会のやることではない」「うちは社会派の教会ではない」などと言うのです。

 実は、私もまったくこのようなタイプの人間でした。しかし、職場で「日の丸」「君が代」という「踏み絵」を迫られる状況に置かれ、「……これはいやだ、どうしたらいいのだろう」と、ようやくいろいろなことを考え始めたのです。

 第二次大戦下、国家の危機が叫ばれる中で、日本の教会は信仰の道からずれていきました。弾圧をおそれ、教派合同を行い、教会は戦争遂行の末端機関へと変容していったのです。教会は神社参拝を国民儀礼として受け入れましたし、礼拝に先立ち、「宮城遙拝」「君が代斉唱」が行われていたのです。気がつくと、信仰の基盤が国家の枠の中に埋没していたのです。

 今、この国は大きく変化しようとしています。私たちクリスチャンが目を覚まし、いのちがけで預言者としての役割を果たしていく必要があると思うのです。