時代を見る目 126 アイデンティティを失った男たち(2) 交わり
大嶋重徳
キリスト者学生会 北陸地区主事
男性の交わりには、三つの存在が必要だと思う。一つはパウロのような先輩クリスチャン。全存在、全生活をかけて、本気で御言葉に生きていくことを見せてくれる信仰のモデルだ。そのような先輩クリスチャンの生き方を見て、信仰者として従いぬくべき事柄を知る。
次にバルナバのような同年代クリスチャン。さばきあうことなく、何でも話しあえ、励ましあえ、慰めあえる存在である。
そして最後にテモテのような後輩クリスチャン。つまり、自らのすべての歩みを見せても恥ずかしくない信仰生活を送っているのか、と自らが問われる存在である。その存在によって、自らの背筋は伸ばされ、次の世代に伝えなければならない使命と責任が育てられる。
私には学生時代、「(婚前のセックスを)やらない同盟」というバルナバ的な男友だちがいた。だれかが「やっちゃう」と、全員丸坊主。意味の分からないルールの中にも次のような大切なルールがあった。「もし不品行の罪を犯してしまってもだれもさばかない。そして、必ずイエス様のところに戻ってくるまで全員が待つ」。この友だちとの交わりは私を自由にしてくれた。自分の中の性衝動について、交際している彼女との問題を全部話してもなお、共に主に祈ることのできる友だちは、私を多くの罪から守ってくれた。
現在、KGKでは全国の男子大学生たちと「男性合宿」を持っている。女性のいない交わりは、言葉を選ばずに分かち合いができる。そこには、今までだれにも言えなかった自分の弱さを受け止めてくれるクリスチャンの友だちがいる。受け止められる安心感がつくる信頼と解放感は絶大なものだ。傷の舐め合いで終わることはなく、「それでもイエス様はどのように生きられたか」と、天を見上げることのできる交わりとなる。
男性は交わりをつくるのが下手だと思う。しかし、男性にこそあらゆる肩書きに囚われない交わりが必要だ。共に主を見上げる男性同士の交わりを通して、男性たちは自らに与えられた神の召しを確認することができる。そしてその交わりの中で、男性としてのアイデンティティを見いだし、深めていくことができるのだ。