時代を見る目 142 子どもがわからない(3) 志を育むために向き合う

佐竹真次
山形県立保健医療大学教授 発達心理学

 「親は子どもと向き合ってほしい」とよく言われるが、「向き合う」ということばは、わかるようでわからない。中には親が向き合いすぎて、子どもが変になるケースもある。親が子どもを名門の学校に進ませ、一流の職業につけたいと強く望み、叱咤する場合などは、強烈に向き合っていると言える。親自身が一流の職業についている場合もあれば、そうでない場合もある。

 名門の高校に入れと親から言われ続けてきた子どもは、中学校二年生の中盤になると自分の実力でそれが可能か不可能かをかなり正確に判断できるようになる。同様に、一流の職業につくことに関しては、高等学校二年生の中盤になると判断できるようになる。不可能と判断すると、親をことばで説得できない代わりに、男子は家庭内暴力、非行、家出、引きこもりなど、女子はリストカット、摂食障害、家出、性非行(たいていは被害者)などを防衛手段として選択することがある。一流の職業でなくても、自分の興味と著しく異なる職業の選択を強要されたときにも、同様のことがよく起こる。

 これらの延長線上の現象であると思うが、六月二十日に奈良県で起きた高校生の自宅放火事件には震撼させられた。父親から医師になることを過度に期待され、成績のことで厳しく叱られていたという。この重圧から精神的に追い詰められ、「自分の身の回りのものをすべてなくしたい」と感じて異常な破壊衝動に至ったとみられている。彼は学力がひどく低いわけでもなく、関係者からの評判もすこぶるよかったというのに、まったく「子どもの気持ちがわからない」と嘆きたくなるような事件であった。

 家庭も学校も何を忘れているのか。子どもが志を立てるための語り合いを忘れているのではないか。聖書には「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ二・一三)とある。子どもの周囲にある人的・物的資源をも用いながら、神は人のうちに働いて志を立てさせてくださるのだと思う。しかも、それは「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」(一六節)とある。「名門」「一流」などということばは、神の前では無意味だ。志した学校と職業と生活を通して、どのように「世の光として輝く」のかを語り合うことこそ、「向き合う」という行為の意義なのではないかと、私は考える。