時代を見る目 143 神なき経済社会の中で(1) 本当の効率性
石戸 光
千葉大学助教授(国際経済論)
日本長老教会 ちはら台教会
経済学の父アダム・スミスは、「人の社会は分業によって効率性が高まる」点を指摘しました。パン屋さんはパンを作ることに専念し、床屋さんは髪を切ることに専念し、その成果を交換し合う、というのが社会的分業です。経済大国・日本は、主に工業製品の生産に専念することで、経済面で世界的な成功体験をしてきたといえるでしょう。しかし、会社間で競って効率性を追求し続け、長時間残業や、場合によっては過労死をも引き起こすような日本人の「勤勉」ぶりもまた、世界的に有名です。どうも「効率性」の実現のさせ方が問題のように思われます。
分業の利益を強調したアダム・スミスは、社会的分業が成り立つための大前提として、「相互の共感」を挙げています。相手の立場を考えることの大切さです。ですから、取引相手をあざむき、出し抜こうとするような土壌からは安定した経済生活は生まれない、ともいえるでしょう。日本も含めた現代の経済社会では、人と人の「奪い合う競争」によって、自分の経済活動の効率性を実現しようと、皆があくせくしているように感じます。これは「本当の効率性」ではないように思われます。
中世ヨーロッパの家具は、壊れにくく長持ちすることで有名だったそうですが、そのような商品を創りだすことこそが「本当の効率性」です。壊れにくいから、資源の無駄がなく、消費者のお金の無駄もないのです。このことの背景として、当時の家具職人たちは、すべてを見ておられる神の前で家具の裏側にも手を抜かずに働いた、という見方があります。そしてこの「神の前での勤勉」が、「神から与えられた仕事に精進する」という倹約の精神、つまり効率を重視する資本主義の出発点になったといわれています。
日本経済の状況は、どうでしょうか。他社を出し抜き、消費者をあざむくための企業活動が盛んに行われているとすれば、それはいわば「神なき人の競争」です。見えないところで手を抜くことによって「見せかけの効率性」を追求しようとする姿勢です。クリスチャンは、このような姿勢から一線を画す必要があります。けれども、この人間中心的「効率性」の圧倒する社会に生かされている私たちは、たいへん弱く、心細い存在です。いったいこの経済社会の中で、私たちは、神様からどのような実践的なあり方が求められているのでしょうか。