時代を見る目 147 こだわらない生き方(2) 礼拝する力

森田 哲也
日本国際飢餓対策機構 元エチオピア駐在スタッフ
日本長老教会所沢聖書教会会員

 熱気あふれる教会堂。窓が少なく電気がないエチオピア農村にある教会の礼拝は、サウナさながらの蒸し暑さ。人々の体臭に加え、献金として持ってきた鶏や山羊もいるので異臭がブレンドされ、時に吐き気を催す。背もたれのない固い木のベンチに座り、早口の現地語による説教をすべて理解できない私にとって、礼拝は拷問に近い。だが、人々は喜びにあふれ、賛美と説教は延々三、四時間続く。週報はない。流れは一応あるが、賛美が二度どころか十度も繰り返されることがあるので、終わる時間は決まっていない。賛美歌集はなく、みんな歌詞を覚えている。そして礼拝後は村人からコーヒーに招かれ、それも豆を炒るところから始まる。結局飲むまでに二時間、まったりと時間が過ぎていく。でも、なぜか心の中は満たされていく。

 安息日である日曜日、時間を気にせずゆっくりすればいいのに、日本の教会は忙しい。礼拝プログラムは週報どおり、時間どおり。終わらなければ時計が気になり、そわそわし始める。賛美は練習しておかなければならないと思い、プログラムにない新しい歌を歌おうとしない。聖歌隊は上手でないといけない。証しは成功談が多い。空調も整い、説教を聴くには万全な環境なのに、居眠りをしている人がいる。そして、礼拝後は役員や壮年、婦人、青年それぞれのプログラムが目白押し。これらが日本の教会すべてではないが一般的な光景だと、様々な教会を訪れた経験から思う。

 「忙しいですか」があいさつにもなりつつある日本で、教会も忙しい。「忙しい」とは「心を亡くす」と書く。たとえすばらしい説教と賛美をしていても、心を亡くした場所では、心の飢え渇きを覚えた人々に癒しを提供できない。内輪で忙しく、外にひらかれない。これでは新来客もとまどう。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」(ルカ一〇・四二)と、もてなしで忙しく振舞うマルタに警告したイエス様である。

 礼拝の場が「これまでどおり」整わなくても、形にこだわらず、まっすぐに神様を礼拝する「心」があるだろうか。エチオピアの諸教会の抱える問題も多いが、たとえ教会堂が破壊されても礼拝する力は十分にあると私は確信する。忙しい「教会屋さん」は、一度壊される必要がある。建物があってもなくても、形に「こだわらない心」で主を賛美すること。それが、神様がお望みになっている本当の礼拝の姿だと思う。