時代を見る目 162 日本の宗教行事への対応(3)
身代わりを求めた生活から生じたひな祭り
勝本正實
日本聖契キリスト教団・初石聖書教会 牧師
引越しをされる方があって、荷物の整理をされている中で不要となった、まだ十分きれいな雛人形をチャリティバザー用にいただいたことがあります。ところが知り合いの方たちが、口をそろえて「人が使っていた人形は気味が悪い」とか「そんなものは買う人がいない」と否定的なことを言われました。私には意外な言葉でしたが、実はそれこそが日本人の心情を表しているのです。つまりその人形には、所有者の魂や思いが込められているという理解です。
雛人形は今でこそ、毎年大切に飾ってはしまっておく大切なものですが、始まりにおいては、私たちの罪・穢れ・災厄を写し取る「ひとがた」でした。このため藁で作ったり、草で作ったり、土で作ったりしました。それを肌にこすり、その後川に流したり、燃やしたり、埋めたりしました。こうして罪穢れを落としたのです。
そのしきたりは、女性たちが作物の植え付け前に行うものでした。このため「女の祭り」と呼ばれて、三月や五月の作物の植え付け前に、豊作を祈願して行われたのが始まりです。神々に豊作を祈願するためには、人間も清くある必要があると考えました。豊作か不作かは生死にかかわることですから、長く大切に守られてきました。時間の経過と共に、次第にその人形を捨てないで飾るようになり、庶民の家庭にも明治以降に定着してきました。
私たちが暮らす中で、どうしても罪を犯して人に迷惑をかけたり、神に恥ずかしいことをしてしまう事態が起こります。そのことは聖書を知らなくても、昔から自覚されていました。負い目を引きずったままで、神々に願い事をするのは良くないと考えたのでしょう。そこで「禊」として、籠り屋で謹慎をしながら人形に自分の穢れを移し、清めの儀式としたのです。そうすれば豊作が期待できると信じたのです。
この習慣は、私たちが聖書を通して学ぶ「キリストの十字架」と似た面を持っていることに気づきます。キリストが私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったことを連想させてくれます。ただ、私たちの国では罪を聖書ほど深くとらえませんので、「謝る・悔いる」ことで赦し合ってきました。私たちは罪の深さ・深刻さを伝えることで、人形では解決できない、キリストの命の償いの必要があったことを知らせていくことが求められます。ひな祭りは、そのきっかけとなる行事です。