時代を見る目 176 裁判員制度に臨んで<2>
いかなる場合も死刑に反対のときは
湊信明
日本福音キリスト教会連合・キリスト教朝顔教会員 弁護士
いわゆる裁判員法が本年5月21日に施行され、7月には日本初の裁判員が参加する刑事裁判が開かれます。裁判員制度では、殺人、強盗殺人などの重大犯罪のみを裁きますから、裁判員に選任されれば、死刑判決の言い渡しに関わることもあり得ます。
一方、聖書は、十戒において「人を殺してはならない。」と命じています。現実の裁判では、裁判官が過去の同種の事例では死刑となっているというように、前例を重視して死刑に導こうとしてきたり、あるいは、他の裁判員がマスコミの影響を受けて死刑にすべきと主張してくることもあり得ます。クリスチャンが裁判員として被告人を死刑に処するかどうかの選択を迫られ、自分は死刑を望まない場合、どのように対処すべきでしょうか。
一般の方が初めて刑事裁判に参加すると、間違ったことを発言するのではないかと、本心を語ることができなくなるおそれがあります。しかし、刑事裁判は、被告人一人の一生が関わる重要な手続きです。誤判により死刑とされてしまっては取り返しがつきません。ですから、その事案の罪状に鑑みて、被告人を死刑に処することに反対なら、評議の場で、毅然とした態度で、死刑は重きに失するから、無期懲役あるいは有期懲役にすべきだと主張していただきたいと思います。
また、そもそも死刑が残虐な制度であり、いかなる事案であっても死刑に反対なのであれば、死刑制度は残虐な刑罰を強く禁止する日本国憲法第36条に反し、違憲であると主張することも考えられます。
最高裁判所判例は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のように残虐な執行方法を定めれば死刑は残虐な刑罰といえるが、刑罰としての死刑そのものを直ちに残虐な刑罰ということはできない」、「現在わが国で採用している絞首刑は、他の方法に比して特に残虐であるとは認められないから本条に違反しない」と判示しています。しかし、日本では、死刑は、被告人に絞首刑台の階段を登らせ、首にロープをかけて、足元の踏み板を外して落下させて、脳に急性貧血を生じさせ、失神状態から心臓停止へと陥らせて殺害します。評議の際に、かかる方法を国家が行うことは残虐であるから憲法上許されないと主張すれば良いのです。
国民が、人を死刑にして生命を奪うこともあり得る刑事手続きに参与することの是非を問う声も聞かれます。しかし、嫌が上でも裁判員制度はスタートします。クリスチャンとして、制度が正しく運用されるよう祈りと信仰をもって見守っていただきたいと願っています。