時代を見る目 187 教育の現場から<1>
乏しいパンとわずかな水とを賜っても
櫛田 真実
日本福音キリスト教会連合 永福南キリスト教会員玉川聖学院高等部教諭
“もっと自由に聖書のみことばから話したい”と最初に強く思わされたのは、地元の公立高校で初めて高一の担任をした時だった。
文化祭の買い出しの何気ない会話から、ある女子生徒の中学時代の性体験のことを聞くことになった。特殊な家庭環境にあるわけでもなく、どちらかというと優等生である彼女が、あまりにもあっけらかんと、「だってこれから付き合う男の子に『こいつヘタクソだ』って思われたくないから練習しとこうと思って先輩の誘いにのった」というのだ。もちろん当時の私にその生徒の発言の真偽や背景を深く汲み取ることができなかっただけで、全くの嘘だった可能性は残るし、彼女のように考える生徒は少数派だったかもしれない。しかし、少なくとも(まだ若い? 男性)教師の前で、しかもグループ内でそのような発言ができる高校生の世界になってしまっている、ということに大変なショックを受けた。
性の問題に限らない。なぜ自分は生まれてきたのか、何のために生きるのか。何を目指して勉強するのか。土日返上でクラブ活動を指導し、早朝や放課後の補習をして、クラブや進学の実績が向上しても、最も大切な問題の“答え”を教えてこなかったのではないか? 卒業生たちとの会話から、そんな自省の思いが年を追って強くなっていき、やがてミッションスクールに移ることになった。
時代は更に深刻になり、経済的にも政治的にも混迷の時代、生徒たちどころか親や教師までが先が全く見えない時代になった。しかし、こんな時代だからこそ、私たち親や教師が“真の教師”主イエスに学びたい。主が弟子たちになされたように、祈りつつ、生徒たちと一緒に時間を過ごしつつ、“答え”としての聖書のみことばをもって語る。「これが道だ、これに歩め」と教えてくださるイエス・キリストこそが「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れない」人生へと導き、この時代にあっても世界の光として生きていけるのだ、と。
「たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」(イザヤ 30:20~21)