時代を見る目 188 教育の現場から<3>
「ごめんなさい」と言える恵み

櫛田 真実
日本福音キリスト教会連合 永福南キリスト教会員玉川聖学院高等部教諭

  訴訟社会アメリカの話として、交通事故を起こしても決して自分から謝罪してはいけない、と冗談のように聞かされてきたが、最近の日本もそれに近づいていると感じる。学校現場でも、部活動の指導や生活指導、学習指導を巡って教師と保護者の間で、不信感や誤解が生じ、時には訴訟騒ぎになることさえある。その結果、教師向けの訴訟保険なるものさえ成り立っている。
 生徒の世界でも「ごめんなさい」は言いにくい現実がある。人間関係がこじれたとき、問題行動を起こしてしまったとき、素直に「ごめんなさい」が言えないことで、どんどん人間関係が狭まり、頑なさへと傾いていく。
 さらに心配なのが、問題が起こったとき、大人たちが子どもたちの「ごめんなさい」という機会を奪っているということだ。この種のやりとりにはエネルギーも時間もかかるため、煩わしいとの思いに加え、親は子をかばうため、教師は証拠もなく追求したときの責任問題に発展することを恐れることさえある。
 私自身、生徒の問題に気付きながらも証拠がなく、保護者との信頼関係に自信のないときは、それを流してしまうことが何度もあった。そこには、面倒だとの思い、保身の思いがあり、子どもの良心、たましいが、神様の前から遠ざかって行くことに思いが至ってなかったと反省と後悔の思いが強い。
 幸い、初めて中学生の担任をさせていただいた3年間、何度も「ごめんなさい」の現場に立会った。友人や教師との関係、そして表情が劇的に改善していく姿を目の当たりにすることができ、まだまだ柔らかい心に感動を覚えた。それは(一時的に叱られたとしても)、必ず赦されるという確信が得られたときにもたらされる変化であるように思える。指導が終わったあと、「もっと早く『ごめんなさい』と言いたくて、ずっと先生が聞いてくれるのを待っていた」と言う生徒さえもいたのだ。
 イエス様は「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」とおっしゃった。それは、子どもたちが何かの問題を抱えているときも、イエスさまが望んでおられることと信じる。 責任問題に目を奪われることなく、たましいの必要に敏感でありたい。そして、親も教師も、子どもたちとともに「ごめんなさい」と言うことをためらってはいけない。イエス様の十字架により、「ごめんなさい」と言えることの恵みを噛みしめつつ。

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)