時代を見る目 203 21世紀にキリスト者日本人として社会に生きる 2
柳沢 美登里
「声なき者の友」の輪
混迷を深める原発事故は、私たちが知らないうちに何を頼りに生きてきたかを突きつけている。科学・技術への絶大な信頼の底にあるのは「将来を予測したい。私たちはすべてをコントロールして安心を手に入れよう」という思いだ。政府による年金や個人の保険などの保障制度も、将来が変わらないことを前提にした安心保障と言えよう。現代日本社会は科学を駆使し、公私共に保障制度を備え、人生すべて万全の守りで固めて思い通りになる、かのような錯覚をもたらす社会になっている。日本社会が目指すことを言い換えれば「未来のすべてを見通せる神の能力を持ちたい。そして思い通りに未来をコントロールして永遠に安心したい」という願いにほかならない。まさに「神なき人間万能主義」、ヒューマニズムが栄華を極めている社会だ。が、人間は「万能の神」にはなれない。この主義を前提にした社会で生きる私たちの予測と準備は裏切られ続け、「安心」とは逆に個人の不安は雪だるま式に膨れ上っている。今回の震災ではライフラインを失い、不便で不安な日々を送られた方々が大勢いた。ライフラインを失わなかった日本人の多くも「予想を超えたことが起きたらどうしよう」と不安に怯えた。私たち日本人キリスト者は、この「人間万能」社会で、どのように生きてきただろう。そう思いながら福音書を読んだ。ユダヤ社会で神に従いたいと願う人々へのイエスさまのチャレンジは、「目先の損を取ること、将来の保障を手放すことを選ぶように」だった。この生き方は、一見、不安が倍増しそうだ。が、そのときこそ、全能の神の指の働きが見えてくる。「人間万能」社会が囚われているもの、すべてがわからないと不安になることから解放され「永遠のいのちを生きるようになる」と。日本では、自分も含めてキリスト者の生活に「世の光」の輝きが感じられないのは、自分の計画や生活を一分の隙もなく固めてしまい、周りの人に神の指の働きが感じられないからかもしれない。日本と世界の隣人のために「将来が未確定である部分」を自分の生き方に導入してみる。そのとき、「人間万能」の日本社会で「聖書の神を万能とする生き方」が輝きだすのかもしれない。