時代を見る目 206 震災からのチャレンジ [2] 悲しむ者は幸いである

吉田 隆
日本キリスト改革派 仙台教会牧師
仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク代表

カトリックとプロテスタント諸教会の緩やかな連合体である「仙台キリスト教連合」は、昨年の秋、自死の問題をテーマに公開学習会を催した。自死者が10年以上も年間3万人を超えるという異常社会の中で、教会の果たすべき役割は何かをともに学び考えたかったからである
自ら遺族であられた講師は、自死という不条理な死を受け入れることもできず生き残ってしまった遺族の苦悩を語られると同時に、自死遺族にとって宗教者の役割がいかに重要であるか、しかしまた、いかに危険な存在であるかを正直に語ってくださった。
“死”という究極的な事柄について、とりわけ自死という不条理な出来事をめぐる問い・苦悶・叫びは、宗教者を除いてだれの所に持って行くこともできない。ところが意を決して相談に行くと、自殺は罪だから天国には入れない(成仏できない)と言われ、自殺者の納骨は断わられ、挙句の果てに、家庭やあなたの育て方に問題があったのではないかと説教される始末……。
もう一つ、私自身が深く教えられたことは、自死遺族の中には悲しみへの配慮(いわゆるグリーフケア)は必要ではない、という考えがあるということであった。“悲しむ”ことは決して病気でもなければ、そこから回復しなければならないものでもない。遺族の悲しみは、失われた者への愛から出ているのであって、むしろ、なくてはならない大切なものとして扱ってほしいというのである。

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“がんばろう”の5文字が躍る被災地は、復旧から復興へ、月日は先へ先へと進んでいる。東北から一歩外へ出れば、もはや震災の影もない。すべては何もなかったかのように華やかな話題がメディアを独占する。津波で愛する者を、放射能で故郷を失った“悲しむ”人々は置き去りにされていく。
悲嘆に暮れ続けることを許さない社会。暗い話題や後ろ向きなことはよくないという価値観に、いつしか私たちも捕らわれてはいないだろうか。大切なことは、寄り添うことだ。
「今泣いている人々は、幸いである」と主は言われた。“悲しみ”は人間にとって何か根本的に大切なことなのだ。立ち上がることもできず、いつまでもイエスの墓を見つめ続けた女性たちのことを考えてみてほしい。復活の主は、ほかのだれよりも先に彼女たちに現れなさった。