時代を見る目 222 私の出会った子どもたち [3]
竹本克己
元 千葉県小中学校教諭
北海道教育大学 教職大学院教授
「お父さん、日曜日のお父さん。何かおこることはないかとギロギロした目で家の中を見る。あっ、また、こっちを向いた」小学6年のY男が、担任の私との交換日記に書いてきた一文である。
Y男の父親は小学校校長。Y男は中学で不良グループに入り、悩んだ母親は、父親に中学校の先生と話し合ってほしいと頼んだが、父親は「中学校の指導が悪い」と決めつけ、動こうとしない。困った母親は小学6年の時の担任であった私に手紙で相談してきた。母親への返事の中に冒頭の交換日記のコピーを同封した。「お父さんにこれを見せて『中学校の先生と協力してY男を支えてほしい』という私の気持ちを伝えてください」と書き添えた。
父親は中学校へ行き、担任と話し、担任はその後、Y男に熱心にかかわってくれ、紆余曲折はあったがY男は高校へ進学していった。
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新しいクラスを受け持ち、子どもたちの個性が段々わかってくると、どの子が手のかかる子かが見えてくる。そして、家庭訪問をして親と話してみると、子どもへのイメージが変化する。
「あの家庭であの親の元で、よくがんばっているなあ」と、子どもの生きる健気さを感じる。反対に「やっぱりなあ」と納得してしまうこともある。これが教師の最も危険な落とし穴である。
「親の養育態度と子どもの性格」は、多くの研究結果が発表され、事実、親の人生を背負って子どもは自分の人生を生きている。しかし、子どもの問題で今悩んでいる親が、養育態度を改めるように求められても急には変われない。親自身が“個性ある親”に養育されてきた子どもである。研究結果、教育論の中で被告席に立たされる親がさらに落ち込み、自信をなくす。
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盲目に生まれついたのは、「神のわざがこの人に現れるため」(ヨハネ9・3)というイエス様の視点に救われる。原因論から目的論への転換である。
厳格な親であっても溺愛する親であっても、そこから子どもとのかかわり方を学び始め、子どもと一緒に変わっていこうとする姿勢の中に、解決のサイクルが動き出す。私ができることは、「ここから歩み出そう」とする親子のそばに寄り添うことのように思う。模範解答や正論が学校・家庭・教会にあふれている。しかし、良きサマリヤ人に出会うことの少ない時代である。