時代を見る目 241 新しいメディア・リテラシー教育 [1] 犬に教わるメディア・リテラシー
牛山 泉
足利工業大学 理事長兼学長
単身赴任の4年目を迎えて、東京の連れ合いとの連絡は、無料通話アプリ「スカイプ」を使ったビデオ通話が慣例となった。あるとき、妻が愛娘である愛犬を抱いてカメラの前に座り、私は画面に向かって手を振って、愛犬の名前を呼んだ。数回のトライアル後、反応を示さない愛犬を前に私の期待は裏切られた。「そうか、犬にとって画面の映像は色が動いているだけで、私の声は別の音に聞こえて私だと認識できないのか!」
平面の画像を現実の世界のように見て、機械から出てくる音を実際の声のように聞く。これはすべて人の脳のなせる仕業であって、実際に目で見、耳で聞いている出来事(事実)と、頭の中で理解される出来事(認知)は別個の感覚であることをペットは教えてくれた。
夏の風物詩の一つNHKの「子ども電話相談室」をたまたま耳にした。子どもの質問に、知っていたつもりの大人はハッとする。しかし昆虫担当の相談員が「実際に昆虫を見て触っての質問が少なくなった」という言葉が妙に脳裏から離れない。確かに普段の生活環境は変わってきたのだ。
メディア・リテラシーの対象は1980年代はテレビが主であった。テレビはただ普通に見ればいいだけのことで、「見方を教える」など学校教育では考えもつかない時代だった。その後テレビゲーム、そしてインターネットがリテラシー教育に大きな座を占めるようになった。メディアが人によって作られ、それをクリティカルに読み解く、接する(触る)能力を育み、「メディアに操作されない」ための教育をする。それは民主主義を育成する教育でもある。今世紀に入り、デジタル化によるサイバー環境が一般化し、紙とペンだけでなく、ICT技術、そして人間の脳が固有に持つ認知バイアスの理解も必要になってきたと感じる。
「私には、自分のしていることがわかりません」(ローマ7・15)
さまざまな認知バイアスが人間の思考と行動を左右し、自分自身を見えなくしていることを行動心理学は教えている。自分の現実とメディアを通した現実にどれほど大きな差があるかを犬が教えてくれたように、外からのイメージと、自分で創る内的なイメージ、これら内外からの構成物に適切な距離感を持てるための新しいメディア・リテラシー教育が必要となっていると感じる。