時代を見る目 242 新しいメディア・リテラシー教育 [2]
湯口隆司
活水中学校・高等学校 校長
リテラシー教育を意味あるものに小学校と中学校での道徳の教科化の中で、道徳テキストの扱いがキリスト教学校で課題となっている。例えば『私たちの道徳』(中学校)に、「二人の弟子」という仏教の修行僧の物語がある(文科省サイトで閲覧可)。現在は聖書科(宗教)が道徳の代替として認められているが、新約聖書の「放蕩息子のたとえ」とこの物語の違いをどう説明するのか。明晰さと同時に祈りや神といった形而上学的な思考が求められる事態となっている。
今から20年ほど前までメディア・リテラシーの対象はテレビ、新聞、ラジオなどいわゆるマス・メディアだった。一方的に見る・聴くだけでなく、情報に操作されないで、さらには発信する方法を提案してきたが、IT化による情報の環境の変化で、その重要性がさらに増している。
デジタル化された多メディアによる新しいネットワークの社会が現在進行形で進んでいる。メディアの多様化で、情報のデータ化や量的な爆発的蓄積には大きな進展があった。しかし反面、情報はあふれ出し情報の本質があらわに見えなくなっている。顕在化しなくなったものとは、規範、権力、倫理的価値観、資本、教科書を含めた制作者の意図であり、それに気づくことがリテラシー教育の任務となっている。
「思想・表現の自由」はメディアの規範であり、民主主義の土台だが、それが「公民科」のお題目的なテスト解答と記憶の中だけにとどまっていないだろうか。「思想・表現の自由」は個人として言葉、映像、音を用いたときに体験的に身につけられる。「つぶやき」やアプリの「短い文節」メッセージでは育たない。
映像や音は人間の論理的思考を抑えて、容易に情緒的な行動へと向かわせやすい。私は、直感的な行動を制御し対抗するための論理的な「ことば」、批判的な思考の教育が「道徳」以上に必要であり、創作だけでなくメディアとその固有な環境への批判的教育は大いに役立つと考えている。
日本は西洋のように言論の自由、思想の自由の権利を長い年月を経て市民が勝ち取ってきた歴史を持たない。思想と自由は人が人間らしく生きるため、パンと水と同等の必須要件であり、それは守る意思がなければ維持できないものだ。社会の全領域に関係するだけに、教育関係者だけでなく、制作者、IT関係者などさまざまな分野との協働がリテラシー教育に求められている。