時代を見る目 244 地方だからこそ見えること [1] 地方教会のよさ

小形真訓
日本長老教会西部中会 巡回説教者

筆者は横浜で生まれ、もっぱら大都市圏で生活してきたが、後期高齢者入りを前に四国地方の海沿いの町で牧会の機会が与えられた。言うまでもないが、地方教会のよさは、距離的にも精神的にも「近い」ことだろう。集まりやすい距離に住み、気持ちの上でも分かり合っている。今日は誰々が休みだがどうしたのかなと気遣い、牧師が声をかければ半時間もたたずに長老たちがそろう。規模は小さくても隅々まで目が届いているのが地方教会の強みだろう。
伝道を開始したのは敗戦後間もなくで、イギリス人宣教師と日本人教職の協力と忍耐によって建て上げられた。国全体が貧しかった時代、教会員は牧師のために海辺で貝を拾ったり、山に入れば木の実や山菜を摘んで生活を支えたという。乏しい収入の中から祈り献げて土地と会堂を与えられた。
いま礼拝説教に立つたびに、礼拝堂の壁にしみ込んだ先輩たちの祈りを聞く思いがある。それはこの「豊かな」時代、講壇に立つ者の心の緩みを戒める声であるかもしれない。地方教会ならではのことだが、教会員の中には五世代前からクリスチャンという日本宣教史を絵に描いたような家族が2組もおられたり、長男でありながら寺社とのつながりを絶つために財産相続を放棄した方もおられたという。
こうした個人の身の回りの出来事が、小さなことかもしれないが、長い年月の間に一つ一つ静かに積み重ねられ、生活体験として受け継がれてきた。そうした信徒の暮らしをしっかりと支える、そのような地味な働きによって教会はこの土地に根を下ろしてきた。

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ところで地方創生の声がしきりと聞こえる昨今である。これまでの極端な中央志向の揺り戻しだろうか。東海道新幹線は開業50年、無事故で56億人を運んだというが、国民の大多数は新幹線に縁のない土地に生まれて育ち、東京スカイツリーどころか富士山さえ見たことがない。
教会はあえて言えば「それどころではない人々」にキリストの救いを運び届けることを求められている。生まれ育った町で精いっぱい生きる人々が、声にならないうめきとともにみことばの訪れを待っている。遠い人々に温かく語りかけるための方法あるいは手段が模索されるべきだろう。宣教は私たちの立つ場所から始まる。