時代を見る目 92 現代のオカルトの傾向と対応を考える

田村 昭二
日本同盟基督教団 豊川中央キリスト教会 牧師

 池田清彦氏(山梨大学教授)は「中世から近世のヨーロッパが、その時代に特有のオカルトを生み出したように、現代の先進国もまた、それに相応しいオカルトを生み出しているのは確かなようである」と語っている。そして、今日科学的と言われる進化論にしても、ビッグバーン理論にしても内容的にはオカルトの分野に含まれるという(『科学とオカルト』 PHP新書 一六〇頁)。

 冷静になって考えてみると、教会側から見る視点と教会の外から見る視点でもオカルトの意味あいは異なってくる。教会サイドで見ると信仰の後ろ盾(教理的根拠)のない神秘的世界は異端か異教かまたはオカルトと見なされるが、教会の外からは逆にキリスト教教理の一部も「オカルト」と見られるかもしれない(終末論、ハルマゲドンなど)。

 それゆえ、教会は「オカルト」という言葉に振り回されてはいけない。大切なのは、個々の問題を浮き出させることである。現にノンクリスチャンの大学教授はゼミ等で真剣にその危険性を訴えている。神学者や神学校教授には彼ら以上の学問的アプローチを期待したい。同時に聖書的視点での問題解決も必要だ。しかしそれはエクソシスト的解決を意味しない。なぜなら悪霊の追い出しのような前提は、その人が悪霊につかれていると断定せざるを得ず、中世の魔女裁判のミニチュア版となりかねない。むしろ、聖書の中心教理の教育的働きにその解決をみるべきである。

 オカルトは、近年までは科学で解明できない森羅万象の神秘的な事柄がその対象であった。しかし今日では、多くの神秘が科学の領域で解明できるようになり、対象が心に関わる方へと領域が移ってきた。さらに、心までもが脳の機能の一部であって、科学的に解明できるという学者が登場すると、科学では解明できない個人的体験や信仰の世界に活路を見いだすのは自然の成り行きである。これが現代のオカルトの特徴といえる。特に、物質的満足を味わった人々が、次に求めるものが、生き甲斐である。つまり「かけがえのない私探し」「自分探し」である。

 それはしばらく前に話題となった映画「千と千尋の神隠し」のテーマでもあった。その意味で、この映画は時代を見据えたものといえる。作り手はこの映画を通して日本の多神教の世界観を心の深みにまで入れようと意図しているのかもしれない。