時代を見る目 98 「Worship Wars」と日本の教会
井上 義
日本同盟基督教団 等々力教会 牧師
米国の教会音楽や礼拝学の書物を見てみると、いずこにも”Worship Wars”という文字が躍っている。直訳すると「礼拝戦争」だが、要するに礼拝とそこにある賛美の音楽とのあり方を巡る議論が、そこまで白熱しているということである。翻って我らが日本の教会においては、この語彙はあまり耳にしない。日本人のクリスチャンは、なぜ礼拝と音楽のスタイルを巡る議論に米国のクリスチャンほどには積極的に参加しないのだろうか。やはり日本の教会は米国よりも十年遅れているのか、あるいは日本人は物わかりのよい平和主義者なのか。
戦争は、字義通りの意味でも、あるいは分裂をもたらすような敵対心のぶつかり合いといったような意味でも、決して起こって欲しくはない。しかし “Worship Wars”におけるような、礼拝という課題に対する「白熱した」「真剣な」態度は、ある意味ではむしろ歓迎さるべきもののように思える。そこにそれだけ真剣に労力を費やす価値を見出し得ない課題については、決して白熱した議論は起こりえないからである。礼拝、そしてそこにおける賛美という課題は、日本のクリスチャンにとって一体どれほど重要な課題であるのだろうか?
カトリック教会においては、礼拝の母国語化、音楽の全面的日本化、会衆の参与の推進、などの第二バチカン公会議の方針を巡って、それでは歴史を生き残ってきた教会の信仰の遺産でもあるラテン語の歌はどうなるのかと、それなりに本質的な議論の声が聞こえている。日本基督教団では、一九九七年以降『讃美歌21』の編集方針とその受容という課題を巡って、賛否両論様々な声が入り乱れており、そこで交わされる熱い議論の声にはなかなかに興味深いものがある。福音派やカリスマ諸教会において地歩を得つつある “Praise&Worship”スタイルの礼拝や音楽は、三十年前のゴスペル・フォークの類の登場の際よりも、すんなりと教会の礼拝に入ってきた感がある。しかし、かつてと今との違いについての実質的な議論の声を耳にすることもないように思える。
礼拝という教会の最重要課題において、様々な意味で変化の生じている時代である。”War”である必要はない。しかし、礼拝と賛美を巡る神学的に深まりのある議論が、福音派諸教会の中にも起こることを期待したい。