時代を見る目 99 「Hymn Explosion」と日本の教会

井上 義
日本同盟基督教団 等々力教会 牧師

 一九五〇年代、牧師たちの毎週の説教と賛美歌選択という職務の危機意識から、英国で”Hymn Explosion”と呼ばれる賛美歌創作運動が起こった。そこでは現代の牧師の説教に見合うだけの内容的質を持つ賛美歌が少ないとの議論がなされ、新作賛美歌詞の創作と検討が始められた。彼らは、牧師にとって教会にとって「何を歌うのか」は、「何を祈るのか」あるいは「何を告白するのか」と同じ意味を持つと考えた。よって”Hymn Explosion”とは賛美の「音楽」ではなく「歌詞」あるいは「教会の言葉」についての深い関心に根ざす運動であり、賛美歌を教会の公の告白の言葉と考え、そこに説教の言葉と同様の意味で深い神学的な反省の目を向けたのである。

 例えば”Inclusive Language(包括的表現)”という反省がある。そこでは、礼拝における教会の言葉は、弱い人、痛んだ人々の心の傷をさらに深めるようなものであってはならない、と考えられる。例えば、「墨よりも黒い心を雪よりも白くなしたまえ」と歌う。日本人にとっては何の問題も感じられない歌詞であろうが、この賛美歌をもって「黒=悪」「白=善」という差別的色彩感のプロパガンダがなされた体験を持つ黒人の方々には、この歌は歌えないと言う。そこで「私たちはそんなこと考えて歌っているわけじゃあないから、気にしなくてもいいじゃないか」と言うか、あるいは「あなた方が傷つくのなら私たちはこの歌を歌うのをやめよう」と言うか、どちらが教会的であるかという反省である。「一人も疎外することなく」という感覚は、「一人として滅びることなく」という聖書的精神に連なるもののように筆者には思える。

 「君が代」という歌がある。この歌は、その内容が現在また過去において天皇崇拝の歌であるか否かという問題を持つ。しかし確実に言えるのは、帝国主義のプロパガンダであったこの歌に、今も心の古傷がうずくアジア諸国の人々が数多くいるということである。歌は人の心を励まし、また鼓舞することができる。しかし歌における隣人への無頓着は、しばしば人の心を傷つけ、また神の御心をも損なうことがあるということを私たちは忘れてはならない。世の光である教会は、自らの歌の言葉に常に反省のまなざしを向けることを怠ってはならないものであろう。