特集『小畑進著作集』
ただ、キリストだけを見上げて 小畑先生との思い出

大山茂夫
高松シオン教会員

古い木造二階建ての商人宿の一室、私と妻は夕食後の小畑先生ご夫妻をお訪ねしました。二〇〇九年、四月十五日の夜のことでした。ひとときの思い出話の後、かたく握手を交わしてのお別れが、この世のお別れになるとは。
その後、何度かお電話を交わす機会はありました。最愛のお弟子さんの葬儀を終え、池戸キリスト教会で最後の仲人をされた姉妹の結婚式に立ち会われ、東京基督教大学での記念講演も無事終えられ、ほっとしているところだとのことでした。自転車での近辺探索、図書館通い、アウグスティヌス研究が目下の日常で、近々、京都で宣教活動を考えているとのお話でした。
それだけにご長男、信吾さんからの十一月二十六日夜、先生ご召天の知らせは、あまりにも衝撃的でした。しかも先生のご意思に従って献体し、葬儀も行わないとのこと。翌々日、交野(かた の)教会にお伺いしましたが、奥様と信吾さんのごあいさつと経過報告だけといった淡々としたものでした。午後、奈良のお宅に伺ったのですが、全く日常と変わらないたたずまいでした。一部屋に作られた書斎は四国時代と全く同じで、三方を本棚で囲み、小机の前に座布団を敷いただけの質素なものです。座布団に座らせていただき、しばし瞑想、先生のぬくもりを感じたものです。

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初めてお目にかかったのは、先生が香川県三木町の池戸キリスト教会に赴任してこられて間もないころでした。クリスチャンになって日の浅い私は、先生のことは全く知らず、妹のすすめで近くにお住まいのお宅にお伺いしました。古い平屋建てのお住まいは、部屋の周囲に置かれた本棚に天井まで積まれた本で、今にも壊れるのではないかと心配するほどでした。すぐにお暇(いとま)するつもりが、小畑スマイルでいきなり両手をつかまれ、座敷にあげられ、その後いきなり、佛教(ぶっ きょう)の概要説明です。驚きましたが、その教え方のうまさに感心したものです。すっかり私は先生のファンになってしまいました。
その後先生は、地元の神学校で西洋哲学、論語、古事記、万葉集、佛教関係など洋の東西にわたる宗教、哲学、思想に関して教鞭をとられました。特に、質問の応答にひろがる博学な知識とその面白さはいつも人気の的でした。また、早天(そう てん)祈(き とう)?(き とう)会は特別値打ちものでした。所属教会が違うにもかかわらず、お許しを得て参加させていただきました。何しろ祈?会後、毎回数十分、先生のご指導で漢文の読解をするのです。二〇〇二年春から始まり、七年かけて二冊の本を読み切りました。カトリック『天主實義(じつ ぎ)』、プロテスタント『天道溯原(そ げん)』で、いずれも宣教師が教理を漢文で書いた百数十年前のものです。住まいが近いこともあり、家族ぐるみのお付き合いでした。先生はよくわが家にも来られましたが、玄関からスキップで部屋に入って来られ、九十代の私の母の手をとって声をかけてくださいました。先生ご夫妻と私たち夫婦、母、妹で、よく一泊旅行に出かけましたが、母が骨折して同道できなくなってからは、私と先生夫妻だけでの旅行となりました。私の運転で、中国、四国、九州、近畿とかなり遠方まで足を延ばしたものです。
先生との旅は、思わぬ発見がしばしばあります。愛媛県宇和島市の法華津(ほ け つ)峠には西村スガオ氏が作詞された讃美歌四〇四番の歌詞が刻まれた石碑があります。宇和海を見下ろしながら全員声いっぱいで賛美しました。
また、出雲路(いず も じ)を旅した時にも、先生のストップに車を止めると、いざなみの尊(みこと)が死んで行った黄泉(よ み)の国の入り口だという場所がありました。神話の宝庫出雲路では、伝説の場所が数多くあります。先生の解説はいつも楽しいものでした。不思議なことですが、佛教、神道、論語などを先生から学んでいますと、いつしか聖書の真理がますます輝きを増してくるのです。

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先生のファッションは、独特です。子どもの赤白帽を白帽にしてかぶり、ジャンパーにトレパン、革靴といったもので、ボロボロのかばん持参です。明らかに奇人、変人と思われるいでたちです。
赴任された最初のころに、先生をお乗せして、県内の各派の教会をお訪ねしましたが、どこでもいきなり旧知のようなあいさつです。最初は驚いた様子ですが、ほとんどの先生方は、いつしか、小畑先生の人柄に好意を持たれたようです。
病院や老人施設にもよく信徒を見舞われましたが、笑顔で多くを語らず、いきなり、肩や足のマッサージを始められます。また、整理整頓のできていない信徒の家では、いきなり大掃除を始めるのです。私だと、そんなことは、パフォーマンスに見えて、躊躇するのですが、先生はいつも自然体です。私は、先生の人柄と相まって、あの服装も大いに関係あると思っています。何しろ、ご自分をいつも低くされ、仕える姿勢をごく自然に実践されていたのですから。集合写真は、いつも端っこです。ご自分が表に出ることがお嫌いのようでした。
先生と私の関係は、老少年同士のようでした。先生はガキ大将です。よく自転車で百キロ以上のツーリングをしました。必ずどこかの教会を訪ねるのですが、自転車での訪問にびっくりする先生方を見て、いたずらっ子のように喜ぶのです。いくつもの峠を越えたツーリングは厳しいものですが、先生と私はいつも競い合います。上りでいくらか私が先行しても、下りは先生の暴走にいつも負けてしまいます。何しろブレーキ踏まずで急坂を突っ走るのですから、よく事故がなかったものだと思います。近くの山のいくつかを、下からまっすぐ登る直登(ちょくとう)をしましたが、後から、それらの山にはマムシが多くいると聞き、ぞっとしたものです。初めのころは、比較的先生も余裕があり、ジョギング姿で近くの信徒の家を訪問されたり、俳句や書画を楽しんだりしておられましたが、二〇〇三年に『創世記講録』を執筆刊行されてから、相次ぐ著書を手掛けられ、随分お忙しくなられました。
ここ数年、先生執筆の原稿打ちは、私にとって楽しい充実の日々でした。この度「著作集」が世に出ると聞き、心から喜んでいます。それにしても先生の筆力は驚くべきもので、いつもタイピングが間に合わないほどでした。しかし、オーバーワークは明らかに先生の体力を消耗させたものと思います。
先生とお交わりいただいた十五年間は、私にとってまさに至宝の時でした。良き師であり、友でした。まだまだ書きたりませんが、先生がご覧になったら叱られるかなと懸念しつつ。