現代社会のサバイバー 第1回 空気を読まずに生きる

安藤理恵子
キリスト者学生会関東地区 主事

 多くの若者が体得している、空気を読む敏感さ、白けた空気を盛り上げる力量を持つ人への尊敬、その場に乗り遅れて痛々しい人と思われることへの恐怖心には、目を見張るものがあります。人々は、人を気遣う賢い人ほど常に何かにおびえていて、次の瞬間に自分を襲うかもしれない危機に対して対策しており、ボロを出さないような説明力を身につけ、ムダなく働き、効率よく楽しむことをよしとして、日々を駆け抜けているように見えます。疲労やストレスが慢性化したこの社会は、日本だから、東京だからなのでしょうか。

 この時代をスマートに生きようとする私たちは、先を読むことが上手になりました。多くの周囲の人々の失敗を分析して、何をすることで評判が落ちるのかを日々学んでいます。やがて私たちは、たとえどのように対策したところで、何かがひとつ起きてしまえば、すべての対策も空しく、味方は消え、自分の努力が将来の何かを保証することはほとんどない、ということに気づくのです。しかし、その境遇に投げ込まれるまでは、誰もが必死に、はじきとばされないように、スピードと情報と器用な有能さにしがみついているのです。

 キリスト者もまた、この時代の子です。私たちはすっかり臆病になってしまいました。聖書に書かれている命令に素直に従わなくなりました。みことばを取捨選択して変形させて利用することが、キリスト者としてより現代的で安全で人畜無害な態度であり、未信者にとっても「証しになる」と信じるようになっています。「結果が伴ってなんぼ」と思っているので、相手が救われる見込みがよほどはっきりしないと、伝道することにしりごみします。「クリスチャンなのに宗教くさくないのね」と言われることは誉め言葉だと感じています。家族がキリスト教に寛容になることを喜ぶ反面、まじめに聖書に従おうとする身内がいると心配になって引き止めたくなってしまうのです。なぜなら、私たちには先がわかるからです。「聖書に下手に従うと、苦労したり、評判が落ちたり、貧乏になったりするに決まっている」神に立ち返るこんな私たちのことを堕落した世俗的キリスト者といいます。私たちは終末の感性にすっかり汚染されています。二十四時間異教的な思想をにぎやかに受け取る割には、聖書を開くことはわずかで、御霊の声はすっかりかき消されて、もはやわかるのは自分の気持ちだけです。私たちは人に馬鹿にされること、軽蔑されること、愛されることさえも恐れて、信仰者として身動きが取れなくなっています。

 ここで私たちは神を至高者として思い出さなければなりません。この方の持ついのちと滅びの重さを今のうちに悟らなければならないのです。地上の人生の短さをわきまえ、地上の結果ではなく御国における報酬に目を開きましょう。この時代の空気に流されずに、結果がどうあれみことばに従うことを、今の状況の中で生きることに私たちは召されているのです。

 「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい」(詩篇一一八・八)真実にこの心を生きようとするとき、人生はもっと自由になります。