現代社会のサバイバー 第3回 孤立社会で交わりをつくる

安藤理恵子
キリスト者学生会関東地区 主事

独身者はひとりでいるのが得意?

 結婚を願っている若者が「自分は結婚に向かないから一生独身だと思う」と早まったコメントをしているのに時々出会います。人間は自分の重大事に関することにはなぜか大体客観性を失って、「絶対」とか「一生」とか言い切ってしまいたくなるようです。落ち着いて周りを見回せば、既婚者が全員「結婚に向いていたから結婚した」というわけではないのは明らかです。ですから独身者も「独身に向いているから独身でいる」わけではないのだろうと思うのです。 そもそも「独身に向いている」とはどういうことでしょうか。「ひとりでいても寂しくない」「人と付き合うのがむしろストレスになる」人のことをそのように表現するのでしょうが、前回書いた通り、罪人はまんべんなく常に寂しいのです。多くの人と付き合えば疲れるのは当然ですが、まったく誰とも付き合いたくないという人は、神に似せられた被造物という性質上、よほど特殊な事情がない限りは存在しえないのではないでしょうか。 独身者も既婚者も、今置かれている状況は、今の自分に対する神の召しであると受け取ることが必要です。何か自分が条件を満たしたから(あるいは満たさなかったから)このような立場になっていると考えるのではなく、今与えられている立場でいかに主に従っていくかを考えましょう。既婚者のみなさん、みこころに従って結婚したのなら、みこころに従った結婚生活を求めていきましょう。この召しに答えるべきなのは、あなたの相手ではなくあなた自身なのです。独身者のみなさん、主に従うときにこそあなたは神の願う最も魅力ある人となることができ、出会うべき人を見分け、見分けてもらえるようになることを信じましょう。もし願いに反して独身時代が長くなるとしても、主と共にあるあなたは、神からの自分の取り分は他の既婚者と比べる必要なく豊かであることに満足できるようになることでしょう。神に従う人は、今の状況に主が意義を持っておられることを信じ、平安を得ることができるのです。

 交わりをつくるひとりになる

 では、与えられているところで主に従うとはどういうことでしょうか。主のみこころをわきまえるためには、基本に立ち返ることが必要です。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネの福音書十三章三十四~三十五節) 現代の慌しい社会の中で、教会生活においても、私たちはお互いに愛を表現する機会が乏しくなっています。相手に愛を感じるほど向き合う時間もなく、足りない愛を主に求める意志を働かせる余裕もなく、そもそも他者に興味すら持てない魂の貧困さが私たちの現状ではないでしょうか。自分が疲れたときには深く優しい交わりを求めて教会を裁くのに、自分が生き抜いていると思えるときには、交わりを求めて倒れている人が面倒臭くて、わき道を選んでしまう私たち。このような私たちがこのまま行き続けるとき、教会はキリストのからだとして世に対する愛を表現することができるのでしょうか。 小さなところから、自己中心なライフスタイルの枠組みを変革していきましょう。具体的には、誰かと交わりを持つために時間をささげることです。この時間をもったいないと思わないで向き合うことです。私たちは自分のすべてをその人に与えることはできません。しかしいのちの一部である時間を分かち合うことで、キリストの愛を共に味わうことができるのです。