現代社会のサバイバー 第4回 仮想現実の中で目を覚ます

安藤理恵子
キリスト者学生会関東地区 主事

仮想現実に流される私たち

  都市生活の惑わしのひとつは、多くの人々とすれ違い、大量の情報に触れながら「ここにいるとあらゆる人々と出会い、あらゆることを知ることができる」と思い込むところにあります。その中から一番いいものを効率よく手に入れたいと人は願うのですが、ネットでわかる情報は玉石混交で信用できないものだったり、断片的で全体像がわからなかったりするので、重要な決断の参考になるものは多くありません。何度も繰り返して見られる説明が生活の隅々にサービスされているので、「今どうするか決めなければならない」という一期一会の緊張感もありません。情報が多い中に生きることは、よい決断につながるとは限らず、むしろ決断をせずに粗雑な情報の中をさまようことに時間を浪費することにもなります。
 また、何かを「見る」ということが、重要な情報交換の手段となったことで、それを言葉にして伝達する機会が減りました。そして人間の愚かなところは、目で見たことがあるとそれだけでわかったつもりになることです。恋愛の展開の仕方も戦争の悲惨さも、映像で紹介されるときに私たちはインパクトをもって学びます。しかし見ることと現実を体験することには雲泥の差があります。こんな当たり前のことに気づかないほどに、全世界からの情報は私たちの生活にあふれ、「この世界はあなたのものだ」と、私たちがこの世の支配者になれるかのように画面からささやくのです。

福音に生きるリアリティはどこから?

神がこの世界の主権者であることを、私たちは覚えているでしょうか。この時代は終わりが定められている限られたものであり、私たちに与えられたいのちはそれに比して、限りがないものであるという特権に目覚めているでしょうか。私たちが集める情報は神の知識の前ではゴミに過ぎず、私たちがうまく立ち回っている賢さは神の知恵の前では汚物と言っても過言ではありません。キリストを知っているすばらしさを、パウロと同様なリアリティをもって告白するには、私たちはどうすればいいのでしょうか。
 第一に、聖書を読み、聞くことです。聖書を読んでいない人が神のリアリティを知ることがない、忘れてしまうのは当然のことです。「読みたいという飢え渇きがないから読めない」という人がいますが、読まないから飢え渇きがないのです。おいしいものを食べたことがなければグルメにはならないし、勉強しない人は自分が無知であることに気づきません。聖書は筋道を立ててはっきりと神の計画を教えています。その論理性を人間の心に刻むために神が選んだ方法は、見せることではなく言葉で伝達することでした。
 第二に、御霊に従うことを学ぶことです。私たちの心に確信を与えて、聖書を悟り感動することができるようにするのは聖霊です。全能者と私たちをつなぎ、神の子どもとしてのリアリティを体験させてくださるこの方の意見に耳を傾けましょう。具体的には、聖書を読んだあとに静まる時間を持つことです。日常の中で「これでよいでしょうか、主よ」と答えを待つ瞬間を持つことです。
 第三に、聖書の命令に従う行動を取ることです。「いつか本当に追い詰められたら」従うのではなく、忙しい今、先のことで不安な今、読んで教えられた通りのことを実行してください。将来主にお会いするとき「あなたの願いは読んでわかっていましたよ」と言えたからといって何だというのでしょう。地上でも御国でも、祝福されるのは、神のことばを聞いてそれを行った人です。従うときに経験させられる喜びほど、救われているリアリティを確かにさせるものはないのです。