生命の危機の時代に 生命の尊さは造り主から
後平 一
保守バプテスト同盟 恵泉キリスト教会 関宿チャペル 牧師
公立学校では、道徳および教育活動全般を通じて「生命を尊ぶ心を育てる指導」が行われるように定められています。しかし、公教育の枠組みの中で、創造主を抜きにして、生命の尊さを教えることがはたしてどこまで可能なのでしょうか。
以前、公立中学校の教師をしていたときのことです。一人の生徒が浮かない顔で私のところに来ました。
「先生、私ってサルに近いんでしょうか?」
聞くと、自分では精一杯努力したのに、テストの成績が悪かったというのです。皮肉にもその時のテスト範囲は「人類の進化」でした。彼女は、自分が努力しても成績が悪いのは、自分がサルに近いからだと思い込んでいたのです。私は彼女に、人は決してサルから進化したのではなく、偶然の産物などでもないこと、神さまが目的をもって、計画をもって、ご自分のかたちに造ってくださったこと、それゆえに一人一人に生きる意味と価値があることを一つ一つ話して聞かせました。
このように、創造主抜きの教育では、「生命は尊い」と言葉では言っていても、同じ教室で、様々な教科を通して進化論的な世界観、人間観を教え込まれています。進化という枠組みの中では、自分の存在も偶然の産物にすぎなくなってしまいます。
また、道徳指導では「人間尊重の精神」が掲げられていますが、これも進化の枠組みの中では、自然淘汰をくぐり抜けて来たがゆえに、より進化が進んでいるがゆえに尊いという論拠に行きついてしまいます。このような世界観、人間観の中からは、自分の存在の意味、価値を見出すことができません。そして生徒たちは、「サルに近い自分」というように、アイデンディティーを著しく傷つけられ、ゆがめられていくのです。
また、知的障害を持つ子どもたちとの交流学習を行ったときのことです。一人の男子生徒がこうつぶやきました。「あいつら、生まれてこないほうがよかったんじゃないか?」
一瞬、耳を疑いました。生命を尊ぶ心を育てるための教育活動の中でのつぶやきです。どうしてそう思うのかと問いただしたところ、「人並みに仕事ができないから自分で生きていけない。社会の役に立たない」という答えが返ってきました。彼と私のしばしの問答の間、本音をぶつけて来る彼のまわりには、それを否定しようとしない他の生徒たちが無言でいました。おそらく本音の部分では、そう考えたのは彼だけではなかったと思うのです。
確かに、能力や生産性で評価されるような世の価値観の中で、障害を持つ方々の生命の価値、存在の価値をどのように説明しきれるというのでしょうか。
そして、これは障害を持つ方々のみならず、全ての人のいのちの尊厳に直接関わってきます。この経済優先、効率優先の社会では、役に立つか立たないかで人間のいのちの価値まで決められてしまいます。
しかし聖書は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ四三・四)と語ります。能力があるから、役に立つから尊いのではない。神さまが、そのご意志によって、ご計画を持って、ご自分のかたちにお造りになったのです。
そして、それだけでなく、ひとり子イエスさまを贖いの代価として与えてくださいました。私たちのいのちの値段は、御子イエスさまのいのちなのです。それゆえに、無条件に、何ものにも変えることのできない尊いものであることを私たちは知るのです。
アメリカ、コロラド州の高校での銃乱射事件の犯人の少年は、事件当日Natural Selection(自然淘汰)と胸に書かれたTシャツを着ていたと伝えられています。まるでこの銃乱射が「自然淘汰」の一つなのだと暗示しているかのようです。
これを対岸の火事として見ていてよいのでしょうか。しばしば報道される凶悪事件は特別の事件なのでしょうか。もっと身近なところで、自殺、虐待、中絶など、数多くの尊いいのちが失われています。そして、多くの人々の意識の中に、創造主を抜きにした暗闇の価値観が深く入り込んでいるのです。
生命の尊重を唱えながら、その実、生命を軽視する風潮が蔓延している昨今、様々な事件は、「なぜいのちは大切なのか」という問いに対して、根本的な解答を提示することのできない社会、学校に対する無言の叫びなのではないでしょうか。
今こそ、教会の出番だと思います。創造主抜きの教育に大切な子どもたちを任せるのではなく、創造主にある教育を回復していかなければなりません。
あなたを造られた方がいる。あなたを尊んで、いのちを与えるほどに愛してくださった方がおられる。このメッセージを抜きにして生命の尊さを教えることは不可能なのです。
最近、日本でもホームスクーリングやチャーチスクーリングのムーブメントが起こりつつあります。私も、教会で小さな学習塾をやりながら、そのことを祈り、模索しているところです。今こそ、主がこの国を癒してくださるように祈り、行動すべき時が来ているように思うのです。