“祈り”に意味はあるのか インタビュー フィリップ・ヤンシー
この本をお書きになったきっかけは何ですか?
自分自身が祈りを知りたかった、というのが大きな理由です。今までいろいろと書いてきたけれど、祈りについて書いたことがありませんでした。実は、祈りについて書くことは避けてきたのです。自分自身の「祈る」という経験がひどかったから。だからこそ、今、知っておかなければ、と思いました。自分でも答えを知らない課題について本を書くことは、他の人から学んでいくことで答えを探し、多くを学ぶことができる良い機会です。
今回の本は祈りについての日記、ヤンシーさん自身が祈りについて深く考えていく軌跡の記録という印象が強いですね。
そうですね。まず長い間、自分の中にあった疑問や問題点に耳を傾け、リストアップすることから出発したのです。とにかく大変な作業でしたが、これが全体を支えるベースになりました。リサーチやインタビューに数か月費やし、書き上げるまでには一年半かかりました。また、私の仕事は「文字」ですから、言葉を選ぶ作業にも時間をかけます。三十年間書き続けてきましたが、どんどん難しい仕事になっていっています。途中で、「何かまちがったことを書いているんじゃないか?」と止まったりしてしまうと大変ですね。
いくら書いても元に戻って見直すので、時間がかかりました。
書いている間はずっと「keeping company with God」(神とともにいる)というタイトルを考えていました。祈りへの理解を助けてくれた言葉です。ただ、「祈りに意味があるのか?」という疑問は信仰にかかわらずだれでも持っている疑問ですから、読者対象もぐっと広がります。
ある調査によると、神を信じていなくても多くの人々が祈るそうです。子どもが病気になったとき、誘拐されたとき、助けが必要なときなど。日本も同じでしょう。
聞かれない祈りについてたくさんお書きになっていますが、批判はなかったのですか?
個人的なことですが、私は一歳のときに父をポリオで失いました。教会は「祈れば治る」といって、医師の治療から父を引き離しましたが、結果は死だったのです。ですから、私の人生そのものが「聞かれなかった祈り」です。それは母にも大きな影響を与えました。「神よ、どうして祈りを聞いてくださらなかったのですか?」「どうしてみんな、神のことを誤解しているんだ?」という大きな疑問をいつも抱いて神の前に立って生きてきたのです。もし奇跡的に父がいやされていたら、今回のような本は書かなかったでしょう。私は「バランスのとれた」本を書きたいと思いませんでした。祈りの力とか、神がこんな祈りをきいてくれた! といった本は、すでにたくさん出ていますが、聞かれなかった祈りについての本はほとんどありません。私は、教会が本当の意味でバランスをとれるようにしたいと思いました。
もし私の本に抗議や批判がきたとしても、「他の本を読んでください」と言うだけです。イギリス人の読者から、「祈りについての本はたくさんあるけれど、自分が責められていると思わなかったのはこの本が初めてです」という感想をもらった時は、とてもうれしかったですね。
何が私たちを「美しい祈り」に駆り立てているのでしょうか?
たとえばバーに行くと、仕事や家庭、社会に対する文句が飛び交っています。みんながきちんとした格好をして笑顔であいさつをするような教会では、聞かれないようなことばかりです。聖書の祈りは、バーでの会話に似ています。「なぜ私を殺そうとするのですか?」とか。詩篇などを見るとわかるのですが。私たちは神に「好かれたい」と思ってしまうんでしょうね。だからいつでも「いい人」に見られたい。けれどもイエスはそんな人々を批判しています。
祈りについて教会で教えられ、学んでいることは、あまりにもバランスを取ろうとしすぎています。
カナダの大学で講演をした時、「いつも自分のやっていることが正しいのかどうかわからないのです」と言ってきた学生がいました。私の答えはこうでした。「やっているんなら正しいと信じるしかないんじゃないか。」実は、こういった疑問は、祈る人のほとんどが体験しているのではないでしょうか。
執筆の過程でヤンシーさん自身が気づかされたことはなんですか?
書きながら、自分の罪意識や信仰が不十分なのではないかという思いと闘ってきました。けれども、聖書にある六百五十の祈りすべてをひとつひとつ検証すると、多くの祈り手が神に対して当惑した思いをぶつけていることがわかりました。詩篇などまさにそうですね。自分が感じたことをそのまま語りなさい、と励まされているように感じました。特に「本音と建前」が強い日本人は、わりと簡単に神に対しても隠しごとをしてしまうかもしれませんが、そんな必要はないのです。祈りは自分のうちに何が起こっているのか神に伝える手段ですから。今こうやって話しているように。また、祈りは個人的な行為で、ひとりひとりがちがった物語を持っています。自分のスタイルに固執せずアフリカ系教会、正教会、カトリックなどからも学ぶべきことがたくさんあります。アメリカ人も、祈りは丁寧で美しく聞こえなければならないと思いがちですが、聖書の祈りは違いますね。みんな、とても正直に祈っています。イエスもこう言っているでしょう。「正直に、簡潔に、あきらめないで祈りなさい!」と。これがポイントです。
神は祈りを宿題のように命じているわけではないということにも教えられました。「ちゃんとやっていい成績をとりなさい」と言われているわけではないのに、私自身はずっと祈りとはそういうものだととらえていたのです。時間がないから十分にできないというようなものではなく、祈りは神と話せる「特権」だということ。祈れないからといって罪の意識にとらわれることも、自分はだめなんだと思う必要もない。これは読者にも伝えたかったことです。
日本の読者へメッセージをお願いします。
自分はだれなのか、神の前で正直になること。そうすると、神がどういう方なのかわかってきます。表に現さなくても、多くの日本人が深い霊的な渇きを抱えています。けれどもクリスチャンにはあわれみをもって人々に仕えたイエスというお手本がいます。日本の社会にクリスチャンができることは、敬意をもって教会の外にいる人々に神がどういう方なのか見せることではないでしょうか。
神はとにかく私たちから聞きたいと願っているのです。私たちの生活に巻き込んでほしい、と。そのためにも、祈りを仕事や訓練だととらえてはいけません。むしろ、神との友情、会話、ゆるされた特権だと喜ぶことです。歯を磨いている間にだって祈れるのですから。