福祉を通して地域に福音を 第2回 弱さを誇ることで知る
「自分を受け容れる」こころ
佐々木炎
一昨年の十二月二十五日の夕方、知的障がい者のグループホーム(地域で民家などを借り、障がい者が四名程度で介助を受けながら共同生活する所)に、いつもの介助員さんが病欠で、代わりに私が入ることになりました。私は楽しみにしていたクリスマスの家族団欒もできないままに、グループホームでの食事作り、入浴介助、就寝準備などに取り掛かりました。
入居者の夕食の支度をしながら、着替えに手間取るAさんやお風呂嫌いのHさんにかかわっていました。そんなときSさんが失禁し、トイレの中にオシッコのプールができていました。床一面にしみているオシッコを身を屈めて拭きながら、そういえば昨日はノロウイルスの疑いがある要介護者の排便処理をしたことを思い出し、私は心の中でぶつぶつと呟いていました。
「神様。今日はクリスマスです。昨日はウンチ、今日はオシッコの始末…、勘弁してください。今夜は家族と楽しいクリスマスの予定だった私が、どうしてこのようにウンチとオシッコと格闘しなければならないのでしょうか」。今にも涙が出そうになりました。
ホームのみんなとの食事が終わったときです。さきほどのSさんが笑顔で近寄り、話しかけてきました。「炎さん、今日はクリスマスだぜ。早く家族のために帰ってあげなよ。あとは自分たちでやるからさ」。周りの仲間たちも声をそろえて促してくれたのです。
私は彼らの優しさに触れ、一瞬の衝撃を受け、一つの真理に出会ったのです。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2・11)
救い主がこの人たちのためにお生まれになった。クリスマスの知らせが、このグループホームに、ここにも来ているのだと確信しました。知的レベルが低いといわれ社会から見放されそうな小さな人たち、弱い人たち、まるで当時の羊飼いにも似た彼らのために救い主がお生まれになった! 今もここに救い主はやってきているのだと気づいたのです。いと小さきもの、弱さを抱えている者の中に救い主が共にいて、この人たちを通して主が私を導いていると実感したのです。神様は、「きょう」この真理を私に知らせるため、わざわざこの場所に呼んでくれたのだと悟りました。寒いクリスマスの帰り道、驚きと感謝と悔い改めが内側から溢れてきました。
私たちは能力や知識を高めることによって、人も社会も豊かになるという価値体系をもっています。そのために知的障がい者を社会の片隅に追いやりがちです。でも彼らの中に実は、真の「人間らしさ」を見るのです。私たちが社会の中で「人を愛すること」「慈しむこと」「思いやること」などを見失い非人間的となり、疲弊し、道をはずし、どこに向かうべきかをさまよっています。いや、見失っていることすら気づかない忙しさにあるのです。
私は知的障がい者の彼らと交わるとき、彼らの前では社会的な立場や地位、能力の有無などから解放され、争うことも競うこともない、ありのままの姿で自分らしく生きることの心地よさを発見します。また、人は誰もが限界や欠点があることを隠さなくてもよいこと、弱さは他人を愛する思いを引き出し、共に生きることが可能になり、互いに良い関係を作ることができて、弱さは憎むべきもの、捨て去るものではなく、人として生きる上で良い機能であることを教えられます。
私は彼らとの交わりの中で、「真の人間へ還る営み」を感じています。神様は彼らという『奉仕者』を私のために立てられていると信じています。介助員となって四年目になる高橋真弓さんという伝道者が、中原キリスト教会の十周年の記念誌でこう書いています。「私は彼らを通して自分自身を見ることができます」
パウロは聖書で「誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」(第二コリント11・30)、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」(第二コリント12・9)と説いています。
彼らは身を挺して、現在の社会が見失っている「弱さを誇る」という大切な真理を示しています。
私たち人間は本来、弱点や欠点やハンディを賜物として与えられています。人は誰でも一人で生きることができず、人は神と共に生きる者であり、神は人の弱さを知り尽くしてなお愛し続けてくれているという、この究極の真理に気づくように、「弱さ」という賜物をあえて神様は備えておられるのです。
そのことに気づくと、今までその弱さゆえに受け容れがたかった自分のパーソナリティが愛おしく感じられ、抱擁することができます。
「私が弱いときにこそ、私は強いからです」(第二コリント12・10)