福祉を通して地域に福音を 第5回 心安らぐ場所に
佐々木炎
八十歳代の高田洋子さん(仮名)は、アパートで一人暮らしをしている要介護2の女性です。母親が幼いときに亡くなり、母の顔を知りません。東京に出て、結婚しましたが、三十歳代前半で夫を病気で失い、二人の子供を育てるために、女手一つで朝から晩まで人の二倍も働きました。
やっと子育ても終わり、ゆっくりできると思った七年前、脳こうそくで左半身マヒとなってしまいました。今は、週三回の訪問介護のサービスを利用しています。
その洋子さんの足が六か月前からむくみ始めました。足は紫色に変色し、足の先に激しい痛みが走り、ベッドから離れられなくなりました。ヘルパーさんの来ない時は、食事も寝たまま、トイレにも行けず、我慢の末にオムツに排尿・排便をしなければなりません。いつ終わるとも分からない苦痛に、眠れない日々が続きました。
主治医の紹介で大学病院の検査を受けると、洋子さんの足は、末梢血管の循環不良で足先が壊死していて、早急に足を切断しなければ死んでしまうと診断されたのです。
家に戻った洋子さんは「足は絶対に切らない」と言い、泣きながら天井を見上げました。
「私の人生は苦労と惨めな生活の連続。その上足を切断して生き恥をさらすなんてまっぴらごめんだ。このまま死んだ方がましだ!」と、涙ながらに訴えました。洋子さんの心は絶望に囚われていました。私は何度も洋子さんを訪問し、苦悩の人生に思いを重ねました。彼女の心は揺れ動きました。
「このアパートの部屋の中だけは、世間の視線を気にしないで済む自分の居場所がある。ヘルパーさんたちに来てもらい、できない掃除も洗濯もやってもらえる。つらいときは親身になって話を聞いてくれる。価値観や人生観なども大切にされる。たとえ足を切断しても、寝たきりになってもなお、ヘルパーさんたちの介助を受ければ、自分らしく生きていけるのではない」
数日後、洋子さんは大きな決断を私に告白しました。
「足を切ることにしたよ。もう少し、みなさんの助けを借りてやってみたい」
私たちの生活は洋子さんのように試練の連続です。思いもよらない苦難にぶつかり立ち止まります。高齢になるに従って自分が大切にしていることや、やりたいことができなくなっていきます。夢や希望が薄れ、自らの生き方に戸惑います。あきらめなければ生きていけない時がやって来るのです。老いは、そのように大切なモノを、秋の木の葉のように捨てていく「喪失」の過程でもあるのです。その喪失過程で、「これ以上惨めになりたくない」と人生を投げ出したくなることも少なくないのです。
でも、洋子さんのように、心の叫びを聞いてくれる誰かがいて、あるがままを「認めてくれる」場所があるなら、試練が押し寄せ、人生の土台が揺らいでも、生きることに希望が与えられ、逃げ出さないエネルギーが沸いて、心を強くしてくれると思うのです。
苦しんでいる人が弱音を吐ける場所、悲しみを抱えている人が悲しい気持ちを批判されない場所、心が傷ついた人が優しく受けとめられる場所、希望を失った人がほっと心休められる場所、そんな居場所が家庭の中に、社会の中に、そして教会にあって欲しいと私は願うのです。
「(神の)愛は忍耐強い。……すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」(新共同訳・第一コリント一三・四~八抜粋)
この世の知恵も聖書の知識も大切です。でも、愛がなければ何の益もないと聖書は教えています(同13章)。そして愛は、すべてを耐える力となるのです。洋子さんのように、この愛を必要としている人が社会の中に多くいると実感しています。
私も青春時代、罪に汚れ、学校も行かず、定職にもつかずに遊びまわり、社会に反抗し続けてつっぱっていました。生きる意味も分からず、私の人生はこれからどうなっていくのか迷っていました。神はそんな私を、神の愛をもった教会の人たちと出会わせ、支えてくださったのです。
「イエス・キリスト、聖パウロは、愛の秩序を持っている。……彼らは暖めようとして、教えようとしないからだ」(中央公論新社刊『パンセ』より)
この世界には多くの慰めがあります。でも私たちの真の慰めは神の愛、その極みであるイエス・キリストの十字架の愛です。この愛を実感しているのです。この愛から漏れている人はいません。見捨てられている人はいないのです。
神の愛と、その真の慰めを受け続けている私たちが、神のあふれる愛の中で隣人の生きる苦しみを理解する人になるなら、苦しみにある隣人はどんな試練にも耐えることができるのだと思うのです。その苦しみを理解することで、隣人は「友として」「仲間として」強められ、励まされ、明日を生きることができるのだ、ということを洋子さんは教えているのではないでしょうか。