福祉を通して地域に福音を 第7回 受けとってみよう
佐々木炎
島田律子さん(仮名)は八十歳代、要支援2で一人暮らしです。七年前から介護保険で訪問介護と通所介護を利用しています。律子さんは「最期まで自宅で過ごしたい」と希望し、身の回りのことをヘルパーさんと一緒にやりながら過ごしてきましたが、三年前に転倒で右腕と大腿部を骨折して入院しました。
私が病室に訪問すると、律子さんは転倒の後悔とこれからの不安を口にしながら、「このまま寝たきりになるのかなあ。施設に入らないと暮らしていけないかもしれない。もう私の人生も終わりね」とポロリともらしました。私はその言葉を聞いて抑えきれずにこう言いました。
「律子さん、最期まで自宅で過ごしたいという願いを私は忘れていないよ。どんな状態になろうと私たちはあなたの願いを支えるから、あきらめないで」
律子さんは深くうなずきながら、「ありがとう。本当に最期まで面倒見てね。頑張ってみるわ」と応えてくれました。私たちは病室でその約束を誓いあい、固い握手を交わしました。
あれから律子さんは介護認定調査のたびに、要介護2から要介護1へ、そして要支援に変わりました。律子さんを取り巻く状況は、さほど改善されず、日に日に不自由さを増しているのに……。でも、なんとか律子さんの当初の願いどおりに自宅での生活が続きました。律子さんが要支援となり、ケアマネージャーが地域包括支援センターに変更されたので、私の役割も一応終わりました。でもヘルパーさんをはじめいろいろな人たちから、律子さんの様子を間接的に聞いて見守ってきました。
先日、三か月ぶりに律子さんを訪問しました。ドアホーンを押すとしばらくして足を引きずって出てきました。律子さんは私の顔を見るなり近寄って、しわだらけの両方の手のひらで私の顔に触れたのです。そして、私の?を軽く何度も触れ、満面の笑みで「久しぶりね。よく来たわね。会えて嬉しいわ。忙しそうだけど、元気そうでよかった」と温かく迎え入れ、抱擁してくれたのです。その苦労してきたゴツゴツした温かな手のひら、そして海のような広く深い思いに触れ、私は激しく心を揺さぶられ、嗚咽してしまいました。
「すみませんでした。あなたの思いをはかり知ることもなく、しばらく訪問しなかったことを……」と私は言って、あとは言葉になりませんでした。
「いいのよ。あなたが忙しいことは知っている。それにね、私はもうすぐいなくなるから。でも、あなたを必要としている人はたくさんいるのよ。忘れないでね」
そう言って律子さんは家の中へと迎えてくれました。
律子さんは私のことを忘れることなく、共に生きていてくれたのです。それなのに私の方は、律子さんと「最期まで一緒に生きよう」と誓ったはずなのに、律子さんが要支援になったことで、心ならずも疎遠になっていたのです。
神さまは「自分を愛するように隣人を愛する」ことを願っています。その意味で私は律子さんを愛し、かかわりをもっていました。でも、律子さんの深い思いやりに触れ、ただ単に「隣人になる」だけではなく、そこから発展し、「互いに愛し合うべきです」(第一ヨハネ四章一一節)と聖書が勧めていることを改めて教えられた気がしました。
つまり隣人になろうと愛したり、与えたり、励ますだけの一方通行の人間関係で終わるのではなく、隣人になった相手からも愛や励まし、優しさを受け取ることが大切なのではないか。そのことでまた、相手に対してより深い愛が生まれ、育てられていく。そんな良い循環が広がっていくことが大切だと、神さまは律子さんを通して教えてくれた気がします。
もし、友人や親子、職場や教会の人たち、弱い人や落ち込んでいる人を愛するだけの一方的なかかわりで終わっているとしたら、疲弊して、愛は枯渇してしまいます。律子さんには、疲れきった私の姿が見えたのでしょう。
他者を愛し、他者の愛も受け入れる「互いに愛し合う」関係の中で、人は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ五章二二、二三節)といった神さまが私たちに願っておられるキリストの品性を備えていくのではないでしょうか。私たちは、他者と共同で人生を建て上げることで人生をより豊かなものにできます。そのとき、私たちは相手との関係の中で、神さまからのプレゼントをたくさん受け取ることができるのです。
せちがらい世の中ですが、隣人とのつながりを修復し、他者と響き合う関係を再創造してみませんか。それを実践する中で、主イエスが人生の同伴者として一方的に私たちを愛しているだけではなく、私たちから愛されることをも望んでいることを実感することができると思うのです。