私の子育てこれでいいの!? 第10回 「ちがい」はまちがい?

グレイ岸ひとみ

 人間だれとして同じ者はいないのですが、日本はアメリカほど「個人」が強調されず、「ちがう」よりは「同じ」であることが求められると思います。外見だけ見ても、みんなと「ちがう」のは歴然としている私たちの子どもたちが、日本の社会に生きることは単純なことではありません。ことばの問題以上に、「ちがう自分」とどうつき合うべきか、問われているのでしょうか。

 長女のれいあは絵を描くことがとても好きです。幼稚園の年少のころまでは、れいあの描く人の髪の毛は緑だったり、紫だったり、赤だったり。様々な色を使って自由に表現していました。しかし、年中さんのあるときから、髪の毛を黒く塗るようになりました。「みんなも黒くしてる」と言ってみたり、「れいあの髪の毛はどうして黒くないの」とか、「幼稚園のみんながれいあの髪の毛を触りたがる」と不平をこぼすようになっていました。そのころから、人前では英語は話さなくなり、「みんなと一緒」を求めるようになり、「みんなとちがう自分」を意識するようになりました。

 一年生になった今、「外国人なの?」と聞かれることにも慣れてはきましたが、やはり、いやだと言います。仲間はずれにされたり、ひとりだけ目立つようなとき、日本人である子どもも恥しさや居心地の悪さを感じます。れいあの場合、ひとりだけ「ちがう」という状況が多いので、余計に意識してしまいます。

 それにしても、周りに合わせたり、同じでなければならない、といった暗黙のプレッシャーを大人の自分も感じます。寸法どおりに幼稚園バックを作らなければとか、入学式には無難にスーツを着なければとか、持ち物への「正しい」名前の書き方が気になったり。「ちがう」ことがまちがってるとさえ思うときもあります。現在住んでいる町に引っ越してから通い始めた幼稚園は、それほど、持ち物など統一しないのですが、最初はまちがわないように、と気を配りました。

 子どもにも大人にも周りに合わせようとする力が働くのですね。たしかに合わせることが要求される状況はあります。周りを見て、自分の位置を確かめられることは大切な術であるかもしれません。

 しかし、現実問題、日本の社会においても、個性、性格などがちがう人を受け入れ、ちがう人と関係を築いていかなければなりません。どれだけ周りと同化できるかと同時に、まず、どれだけ自分らしさを知り、自分を受け入れ、自分を表現することができるかが問われているような気がします。れいあの葛藤は否定はできません。受け入れながらも、ユニークなれいあを知ってほしいと願う昨今です。また親としてどのような手助けができるのか、探りながら子どもたちとかかわっています。

 最近考えているのは、子どもたちのユニークさや自分らしさは、親が育てるものではなく、子どもたちの中に芽生えていくものだということ。親は水をまいたり、肥料を与えたり、害虫を駆除したりはできても、花の成長や開花はコントロールできないのだということ。

 でも、現実には、私は昔競泳をしていたので、心の奥底で子どもたちに水泳を習わせたいとたくらんでいます……。夏休みの宿題も、課題を私が選んでやらせてしまえば、簡単に済むかも、なんてことも頭をよぎりました。太陽の色を黄色にしたらとか、空は青にしたらとか、線から出ないように色を塗ってごらんとついつい言ってしまいそうになったり。子どもの内側にある可能性、感性、人格は親のものではなく、子どものもので、子どもと一緒に成長するものなのだ、と自分に言い聞かせるようにしています。

 あまり周りを見ない、「おめでたい」双子の妹たちには、国境はありません。「真理は、八王子とアルバカーキー(夫の実家のある町)に住んでいるの」と言い切ります。東南アジアに何度か行ったことがあり、水道の水が飲めないことを体験しています。

 先月、長野県に行ったときのこと、「長野の水って飲めるの?」と舞香が歯を磨いているときに聞きました。タイという場所、長野という場所。ちがいといえば、飛行機に乗って行くか、車で行くかくらい。人に対しても、「アメリカ人はアメリカ人。日本人は日本人。私は私。そして、みんな自分のことが好き」くらいに思っているのでは。

 そんな彼女たちも、ある日、「ちがう」自分に気づくのでしょうか。ことばや国籍の問題とともに、本当の自分を求め、葛藤し、反抗するのでしょうか……(怖い)。ありのままの自分を受け入れ、喜び、人を創られた神様に愛されている現実を知ることができるといいなぁ、一応願っているのですが……。あなたは何色? 子どもたちにしか見つけることのできない答えかもしれません。納得のいく色を見い出してほしいですね。