私の子育てこれでいいの!? 第11回 君は愛されるために生まれた
グレイ岸ひとみ
聖書の神さまへの信仰を持つ親として、子どもの信仰について考え、迷います。自分の信仰を子どもたちにも持ってほしいと思う反面、押し付けではなく、自分で選んで信仰を持つために、どのように子育てをしたらよいのか。いろいろ思い悩む中で、両親と自分の信仰、そして受けてきた子育てについて思い巡らせている自分に気が付きました。
私の両親も聖書の神さまを知っています。父がキリスト教会の牧師でしたので、私は生まれたときから賛美歌を聴きながら育ちました。聖書の物語を繰り返し聞き、聖句を暗記したり、教会の結婚式では「専属フラワーガール」としての出番もありました。父と母が「目に見えない」聖書の神さまにお祈りする姿をいつも見ながら、いつの間にか子どもながらに祈るようになっていました。生活の中に神さまが自然な形でいたので、違和感なく神さまに接して大きくなりました。
親に強制されて教会に行ったり、聖書を読まされたり、信仰者らしく「こうでなければならない」とか「あれはだめ、これもだめ」というプレッシャーもなく、親の信仰する姿を追いながら子ども時代を過ごしたような気がします。私の両親が子どもたちにどうしても分かってほしいと思っていたことがあるとすれば、それは、決して聖書の物知り博士になることではなく、教会のお手伝いが積極的にできることでもなく、立派な祈りの生活を確立させることでもなく、牧師や聖書の教師になることでもありませんでした。それは、天地を造り、人間を創造された神が私たちのことをどれほど愛しておられるかということ、すなわちイエス・キリストの生涯に組み込まれた神の愛の証しだけだったのではないかと思います。それは、人生の苦しみ、悲しみに打ちひしがれるときに、上手に解決を見出すことよりも、苦しむ私たちと共に苦しみ、私たちを孤独と絶望の中で励まし、希望を与えてくださるということ。さらに、だれにも愛されない、と失望するときに、私たちを抱き、共に歩んでくださる神さまがそばに存在するということだと思います。
もうだいぶ前のことですが、宗教の教えがからんだ輸血問題が社会を騒がせたことがありました。そのときに、父は私の弟にこう言いました。「もしも、おまえが生き延びるために輸血が必要なことがあったら、パパは一瞬も迷わずに体中の血をすべてあげるからね。」今でも、そのことばの重みと愛されているという実感を忘れることができません。親の愛情だけでは、おそらく、そのようなことは言えません。父は、私たちのために自分の命をも惜しまず与えてくださる神さまに愛されていることを知っていたので、当然のこととして、そのように子どもに愛情を表現することができたのだと思います。そんな両親から学ぶことは、宗教的な儀式や習慣としてではなく、子どもたちの命、存在、人生に愛をもって介入してくだる神さまを子どもたちに知ってもらうこと、共に体験してもらうということです。そして、神さまの愛をいっぱい受けて、人を愛することを知る大人になってほしい、という心からの祈りです。
その後、私は、学生時代に親を試し、親の信仰を試し、神を試し、自分を試し、自分探しの数年を過ごしました。そのときも、両親は何も言わず、見守ってくれたのでした。悶々とした生活の中で、ある日神さまの愛が分かり、神さまと歩む人生を決意しました。それは、反抗の末、キリスト教という宗教を選んで信仰を持ったということではなく、自分の存在価値、存在する意味にじかにかかわる体験でした。神が人間とつながる領域を宗教で埋めたのではなく、その領域で生きた神と出会い、本来の自分の姿と出会い、自分を愛してくださる聖書の神とつながっていきたいと心から思ったのでした。また、「生まれた環境がそうだったから」とか、「親もクリスチャンだから」という状況から信仰を持ち始めたとしても、私の納得のいく選択として、愛を持ってかかわってくださる神さまをたましいで知った体験でした。
自分が子育てをする立場になって感心することは、子どもの中に、神を求め、神につながる「領域」が意外にあるということです。日常の生活で、子どもたちが神を思うときが結構あるのです。神社で参拝する人を見るとき、宮崎駿の映画を見ながら、もちろん聖書の話を聞きながら、また最近は死んだ後はどうなるの、という質問を子どもたちがよくします。「目に見えない」存在、神秘的な世界、空想の世界の存在としての神さま。確かに家庭環境に神が存在することは大きな影響を与えていると思いますが、子どもたちは「幼稚園の先生は神さまのこと知ってる?」とか、友達と遊んでいるときに「ねぇ、神さまって知ってる? 順ちゃんのこと大好きなんだよ」などと言ったりするのです。
神さまは目には見えませんが、神さまと人から愛されているという実感と知識を子育ての中で自然な形で知ってもらえたらいいなぁ、と思う今日この頃です。