私の子育てこれでいいの!? 第9回 ママ、お花が笑ってるよ
グレイ岸ひとみ
私たち家族は大きなマンションに住んでいます。毎朝、幼稚園に行くとき、玄関を出て広い駐車場の中を歩き、ようやく隅のほうに止めてある車に到着します。直線にして百メートルくらいです。急いでいるときは、二人の子どもの手をとり車につれていきますが、少し時間にゆとりのあるときは、先に車に行き、二人の到着を待つことがよくあります。
二人は頭を下に垂れ、ゆっくりと歩いて、地をはう小さな生き物や花や雑草に目を留め、立ち止まり、触り、そして時に手に取り、さらに観察し。先日は、手の中にだんご虫をたくさん持っていました。死んだ虫をアリの巣に入れようと、大きなお世話をやいたり。秘密のヘビイチゴ、アジサイの成長具合、大きなクモの巣のありか、草花についているアブラムシを食べるてんとう虫などなど、まるで小さな生物学者であるかのように、駐車場内の動植物体系を知り尽くしている感じです。
子どもって自然が大好きです。自分も子どものときは一日中セミとりをしたり、セーラー服をたくし上げて田んぼの中でおたまじゃくしを捕まえたり、裏山のみかん畑を探索したりと、自然と触れ合う興奮と楽しさを満喫したものでした。
大人になり、「人生の目標」や「生きがい」などを求めるようになって、なぜか自然から遠のいてしまいました。休暇で山に登ったり、海で泳いだりするくらい。いつの間にか、釣り針にミミズをかけられなくなり、レタスの中の青虫に悲鳴をあげ、大腸菌に覆われたカタツムリに触れなくなり、拒絶するまでに。懐かしさは残るものの、小さな生き物たちや自然の素顔から目をそらしたり、かかわりを持とうとしない自分に気づかされます。子どものときはもっと自然の一部だったかもしれません。花の表情も素直に読めていたのかもしれません。
小さい自然、大きい自然、生きている自然、怖い自然。いろいろな顔を持つ自然と「素」でかかわる子どもたち。小さな命を大切にする心、いたわる心、探究心や冒険心が自然の中で育ちます。そんな子どもたちに手を引かれ、自然に帰っていくことが多くなりました。
もう数年前のことですが、長女れいあが初めて金魚すくいで黒い出目金をゲットしました。「ここちゃん」と名前を付けて、その晩は寝るまでずっとそばを離れませんでした。翌日、プールから帰ってきたれいあは、まっすぐにここちゃんのところに行きました。「ママ、ここちゃんが寝てるよ。」お腹を上にして、たしかに、ここちゃんは動きません。初めて経験した悲しい死別。はかない命。守ってあげたい命。大切な命。親子で命をいたわることを学びました。
春先、小さな野の花が花びらをいっぱいに広げて咲いていました。「ママ、お花が笑ってるよ」と真理。心がウキウキしました。どことなく懐かしい気持ちでした。「ママ、お花が泣いてるよ。早く水に入れてあげなきゃ。」駐車場でとった花が舞香の手の中でしおれていました。子どもの優しさに触れました。「ママ、赤アリは噛むから気をつけて。」必死に赤アリを踏んで、ママを守ってくれました。「ママ、見て。きれいな夕やけ。明日は晴れだよ。」洗濯物が乾くと思うと、何だか心が弾みました。
どの時代においても、子どもの世界でも、大人の世界でも、いじめや虐待、殺人、自殺、暴力、性の乱れ、孤独、心のストレス……波のように打ち寄せる悲しい世界。関係に傷つき、関係が壊れていきます。疲れ、痛み、失望している私たちに、恐れずに、気を遣わずに、「素」でぶつかってくれる子どもたち、そして自然。そんな子どもたちの優しさやいきいきとした姿に触れ、大人の私も心があたたくなり、前向きな力で包まれます。疲れたままの私を包み、繊細な虫に対する思いやりで私の心を満たしてくれます。いくら逃げても、自然とかかわる子どもたちをとおして押し寄せる子どもの優しさ、躍動する子どもの好奇心に捕まってしまうのです。大自然を創り、命をあたえ、命を支えてくださる神様の愛と重なって、私のたましいも豊かに満たされます。
先日、いとこたちと動物園に行ったときのことです。
「見て、見て!」
いとこのひかりちゃんが手を差し出しました。
「何、それ?」
と言いながら、近づいていくと、
「トカゲのしっぽだよ!」
「きゃあああああ……」
その場を思いっきり走り去りました。手のひらの上でくねくね動き回っていたしっぽは、トカゲが逃げるときにちぎれた、という。変な恐怖心は植えつけたくない、と思ってはいますが、気持ちの悪い自然からはひたすら逃げるしかありません……。