米国で活躍する福音派クリスチャン
――海を越えて、つながる信仰 「大浪費家」ともいえる恵み

福田 真理
グレース シティ チャーチ東京牧師

『「放蕩」する神
キリスト教信仰の回復をめざして』
ティモシー・ケラー 著 1,365円

『「放蕩」する神』というタイトルは、センセーショナルですが、キリストの福音の核心的なメッセージを的確に表現しています。聖書が伝える福音は、この世の中では決して聞くことのできない驚くべき恵みであり、しばしば私たちはキリストのメッセージに耳を疑ったり、反発したりするからです。
また、クリスチャンにとって福音が当たり前の聖書のメッセージであるかのような「慣れ」に対して、衝撃を与えるための表題とも言えるでしょう。
「放蕩」とは、「ほしいままにふるまうこと。特に、酒色にふけって品行が修まらないこと。放埒。道楽」という意味ですが、これを神に当てはめることに抵抗を感じる方も多いでしょう。
著者は原語であるprodigalに、もう一つの意味があることを同書で解説しています。「prodigal 1浪費する。2気前のよい、惜しまずに与える」。すなわち、神はご自身の息子であるキリストを犠牲にしたことにおいて放蕩的であり、ここには、私たちに惜しまずに与える人知を越えた恵みの性質が明らかにされているのです。

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本書はニューヨークのマンハッタンにあるリディーマー長老教会を開拓したティモシー・ケラー牧師の邦訳第一作です。前作『Reason for God(未訳)』はニューヨークタイムズのベストセラー(第七位)となりましたが、これは、彼の福音のメッセージがキリスト教に対して懐疑的で理性的な議論家の多いニューヨーカーたちに受け入れられたことを示しています。
ケラー牧師は、常に懐疑的なノンクリスチャンと伝統的なクリスチャンの両者に対して、福音の驚くべき恵みの力とキリストの十字架の美しさをアピールすることに腐心しています。彼らの価値観や生き方を反映している文学、音楽、映画、美術、雑誌等を縦横無尽に駆使し、福音の恵みによって彼らの心と人生が変えられるだけではなく「都市が社会的にも霊的にも文化的にも新しくされる」ことを目指しています。
ケラー牧師に最初に出会ったのは、世界で最も世俗的とも言えるニューヨークのマンハッタンにある、リディーマー長老教会を訪問する研修旅行においてでした。福音中心的な都市型のしかも若い世代にアピールする教会開拓をしていて、毎週三か所で五回の礼拝を行い(同教会は教会堂を持ちません)、五千人のニューヨーカーを集めています。彼は、「創世記においてエデンの園から始まった神の国は、黙示録において聖なる都、新しいエルサレム、すなわち神の都市になる」と語りました。福音に基づく贖罪史におけるこの都市理解は、私の心をとらえました。
都市は悪いもので、数々の犯罪の温床であり、罪の巣窟であって、美しい神の国は田舎にこそあると考えていたからです。しかし、福音は都市をも神の都に作り変える生きた恵みの力であると受けとめ直しました。
その後二〇〇八年の夏、不思議な神の召しにより、私は東京都心における教会開拓に導かれ、横浜の前教会を辞して家族とともに日本橋に転居し、現在リディーマー教会開拓センタ―と協力しながらグレースシティチャーチ東京の教会開拓に従事しています。

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ルカ福音書一五章の有名ないわゆる「放蕩息子のたとえ」は、元来「弟」のほうに集中して解釈されがちですが、ケラー牧師は本書で、「兄」に語られた言葉にイエスの最も重要なメッセージが込められているという理解のもと、「失われた二人の息子」のたとえとして読み、キリスト教の核心に迫るメッセージとして取り扱っています。
そして、私たちのために向こう見ずなまでに与える「大浪費家」とも言える恵みの神を浮き彫りにしています。
その洞察は、私たちのキリスト教的な先入観を再考させ、福音理解をより深く導いてくれます。「兄息子は、その正しさにもかかわらず、父の愛を受け入れなかった、というのではありません。その正しさゆえでした」(四七頁)とは、正しい行いは価値があるゆえに、自分が自分の救い主になってしまい、神から離れる原因になりうることを示しています。それは、ともすると律法主義的になりがちな私たちの信仰の心を回復してくれます。
さらに、「自らを犠牲とされた高価なイエスの十字架の美しさを理解するとき、私たちの心がイエスに魅了され……愛や偉大さ、慰め、尊厳など、自分たちが求めていたすべてが、ここにあると理解する」(九四頁)と語ります。キリストの犠牲を伴う恵みに触れることで福音の美しさに心が奪われ「自分を捨て、自分の十字架を負ってついて行く」新しい歩みに大胆に踏み出すための助けを与えてくれることでしょう。