終末と再臨 善を偽装する悪
岡山 英雄
日本福音キリスト教会連合 東松山福音教会
昨年九月の同時多発テロ事件以来、「戦争」とそのうわさ、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がる」こと(マタイ24:6-7)への不安が高まっている。今年は「戦争の年」になると宣言した大統領もいる。このような事態を、終末的な視点からどのように考えればよいのだろうか。
この四ヶ月の間に、今回の事件についての鋭い分析がすでになされてきた。特に言語学者ノーム・チョムスキーへのインタビューを集めた『9・11(アメリカに報復する資格はない!)』(文藝春秋)は秀逸である。事件の意味、実際に何が起こっているのか、それをもたらした原因は何か。その問いに対する答えは、視点の位置によって大きく異なる。ところが私たちに与えられたのは、一方の当事者の側に大きく偏った情報であった。十年前の湾岸戦争においても指摘されていたが、過剰でありながら実質の乏しいマスメディアの、とくにテレビの「報道」によって、事態の核心はむしろ見えにくくされてしまった。
本物と偽物とを区別することが難しい時代であることを痛感するが、実はそれこそが終末の時代の「しるし」である。「本物」のように見える「偽物」について、聖書には多くの警告がある。イエスは言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。……にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。……にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:4-5、11、24)
世の終わり、それを示す「時のしるし」は、教会を惑わす様々なにせの教えの蔓延である。「善」を装う「悪」について、イエスは山上の説教の中で語られた。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)パウロもまた、「にせ使徒」についてコリントの教会に警告した。「(彼らは)人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。」(2コリント11:13-15)黙示録の7つの教会においても、にせの「使徒」(2:2)、にせの「ユダヤ人」(2:9、3:9)、にせの「預言者」(2:20)などが、エペソ、スミルナ、フィラデルフィア、テアテラの教会を惑わしていた。
悪が悪として現れるなら、少なくとも誰が敵であるのかは明瞭である。しかし悪は善を偽装してやって来る。そしてその惑わしは「選民」(マタイ24:24)、すなわち神の民に向けられる。悪の勢力が死力を尽くして惑わそうとしているのは、ほかならぬ教会であることを忘れてはならない。
パウロは死の直前に、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思い」つつテモテに警告した。「(世の終わりには)人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる。」(2テモテ4:1-4)
終末の時代に、人々は「健全な教え」よりは、むしろ聖書的根拠に乏しい「空想話」や「作り話」(共同訳)に惹かれていく。また事態の的確な分析よりは、単純化されたスローガンや衝撃的な映像、巧妙につくられた偽りの「物語」に心を奪われていく。そしてついには、憎悪や復讐心による暴力や殺人が、「神」や「正義」ばかりか「キリスト教」の名の下に正当化されていく。このような「幻想と自己欺瞞のシステム」(チョムスキー)に惑わされてはならない。
私たちに求められているのは、みことばの真理に根ざした「識別力」である。パウロは書き送る。「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、キリスト・イエスによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。」(ピリピ1:9-11)