翻訳者の書斎から 11 神は備えたもう

辻 紀子
翻訳者。他訳書に『天国』『1ダースのもらいっ子』『新版 若い父親のための10章』(いずれもいのちのことば社刊)などがある。日本基督教団 蘇原教会 会員

 私は、昭和7年に生まれた。それは明治43年生まれの母たちがその青春に楽しむことのできた大正デモクラシーと呼ばれたつかの間の、いくぶんのびやかだった時代から、日本が中国、アメリカ、旧ソ連を相手にした悲惨な戦争の時代に入った時期であった。

 1945年8月15日、女学校の一年生だった私は、敗戦の知らせを北京の学校の校庭で聞いた。あこがれの女学生になった私は、竹槍を持たされて、米兵に見立てたわら人形で敵を殺す訓練をまじめに毎日していた。

 英語は敵国語であると禁じられ、学校では中国語を学び始めたときであった。その日どうやって家まで帰ったか記憶にない。

 まもなく日本人は帰国する引揚難民として集結させられ、収容所に入るまでの間、見知らぬ日本人どうし割り当てられた日本人住宅で共同生活をするようになった。私の家にも大勢の人が住んだ。このような混乱の中で、学校に行けなくなった近隣の子どもたちのために、大人たちが学習グループを作って勉強が始まった。女学校一年の私も誰かの家で「初めての英語」教室に加わった。もちろん教科書も辞書もない。座敷の壁に貼られた手書きの紙を使って、女の先生が「ABC……」と明るい声で教えてくれた。無事に日本に帰国できるか不安な暮らしの中で、新鮮に記憶の中に残っている。そして私は、間もなく収容所に入れられ、英語の勉強どころではなくなった。

 中国東北部の冬は厳しく、凍る地面に眠る顔に雪は冷たかった。春になり、生き抜いた私たちに順番が来て、米軍の上陸用船艇に乗せられ、九州に上陸できた。ようやく祖母の住む北海道の伊達にたどり着いたとき、四月も半ばを過ぎていた。私は中学二年に編入され、再び英語を学習できるようになった。

 そんなある日、札幌のアメリカ文化センターの所長が学校に来て、「民主主義――人権、自由と責任」と題して講演をした。体格のいいアメリカ人の傍らに、赤いスーツの日本人女性が立って、明快な通訳をした。「人間の尊厳、自由に伴う責任ある社会」について語られる二人の言葉を一言も聞き漏らすまいと私は集中していた。今まで教えられたことのなかった新しい考えに興奮して帰宅し、祖母にその日の体験を語った。「大切なことを外国語から日本語にして伝えることはいいね。紀子もそうできるようになるといいね」としみじみと祖母は私に言った。私はなぜかうれしかったのを覚えている。

 やがて父が札幌に職を得て、私も札幌のカトリックの学園に転校した。乾いたスポンジが水を吸うように、私は勉強に励み、アメリカ文化センターに通って、英語の本を次々と読むのが楽しかった。

 大戦後の日本は、今の北朝鮮の事情と同じで、私たちはいつも空腹に耐える毎日で、夜になると電気が無かった。魚油を小鉢に入れて木綿の紐を浸して灯をともして、私はウォルコットの『四人姉妹』を読み、英語の単語を覚え、受験勉強に励んだ。間もなく、近くで宣教師が英語聖書研究会を開いたとき、私は真っ先に訪ねた。そのときもらった聖書は、50年を経た今もまだ持っている。そして聖書を学ぶようになって5年後、私はアメリカで洗礼を受けた。

 その留学中に感動を受けた『1ダースのもらいっ子』を学業の合間に翻訳し、1960年に自費出版をした。

 多くの人に読んでほしかったこの本は、資金がなく1,000冊しか刷れなかったが、思いがけず「朝日新聞」「毎日新聞」でも取り上げられ、完売した。またその後、販売が続かなかったときも、NHKの「私の本棚」というラジオ番組で、この本が取り上げられ、3週にわたってこの本が朗読され、全国に放送された。まさに神の奇跡がここにあった。

 そして40年後、この本はいのちのことば社から再版され、その後私は『ジーザス』『天国』(いずれも、いのちのことば社刊)と翻訳を依頼された。力不足に嘆き、拒もうとしても、神は私の背を押しておられる。そして、神の愛を伝えるため用いてくださることを感謝して、私は机に向かっている。

 「主よ、私をあなたの平和のためにお用いください」
 (アシジの聖フランシスコの祈りから)