翻訳者の書斎から 13 共に天を仰ぐとき

吉川 直美
編集者・翻訳者。他訳書に『すこやかに祈る』、共訳書に『キリストの心で』(ともに いのちのことば社刊)などがある。シオンの群 中野キリスト教会 会員。

 天は果てしなく広がるのに、私たちはほんの小さな窓を通してしか、天を仰ぎみることができません。希(こいねが)いながらも、世の慰めに目を奪われ、地を駆けずりまわるような毎日です。しかし聖霊は、様々な窓を開いて天からの光を注いでくださいます。聖書や祈りはもちろんのこと、賛美の調べ、あるいは沈黙、蝋燭の炎のゆらめき、聖画に描かれた主のまなざし──。すべてが、一人の人を指し示し、一人の人の香りを漂わせ、一人の人との交わりへと招いています。そして、すぐれた信仰の書を開くとき、天の窓も大きく開かれます。ざわめくたましいが御前に静まり、主のかすかな声が私たちの耳を震わせるのです。

 ワンゲリンの祈りの書も、まさしく天に向かって広く開け放たれた窓です。さらにワンゲリン自身のことばを借りるなら、祈りの「部屋」へと迎え入れる扉です。詩篇の祈り、連綿と受け継がれてきた聖徒の祈り、叫びにも似た祈り、名も知らぬ老女の声なき祈り、そして主ご自身の祈りと、かずかずの部屋を訪れるうちに、いつしか私たちの祈りと一つに溶け合い、個人や時空を超えて共同体の祈りへと投げ入れられているでしょう。こうした祈りの祝福を私たちに体験させようと、いえ、共に体験しようというワンゲリンの真摯な願いに心を打たれます。

 ワンゲリンは私たちの心の枷(かせ)も、ひとつひとつ丁寧にはずしていきます。主に親しく語りかけ てごらん。主の声に耳を傾けてごらん、祈りは主とのコミュニケーションなのだから。祈りによって主との関係を深め、たましいを回復させることができるのだよ。もっと、祈りの豊かさ、力、祝福を信頼しようではないか──と。

 このような語り口に安んじて訳していると、時として辛辣(しんらつ)な人物描写に出くわして面食らうことがありました。また、些細にも思える細かな状況描写の反復にも、力のない翻訳者としては閉口しました。どう日本語に置き換えたなら著者の意向を損なわず、かつ読者に受け容れられるだろうか──とりわけ、差別語に対する社会通念の違いもあって、人物にまつわる形容詞の選択は、もっとも苦慮するところとなりました。

 しかしもちろん、ワンゲリンの意図するところは決して、人を貶(いやし)めたり蔑(さげす)むことではなく、作家としての、また信仰を語る者の取るべき姿勢と責任に貫かれてのことでした。ワンゲリン自身が来日講演で「あくまで客観的に、時系列に沿って状況を語ることで、物語が読者自身の生きた体験となる」と語っています。丁寧な状況描写の積み重ねによって、映像を見るかのごときリアリティが生まれ、物語に没入することができるのです。

 そして、忌み嫌われるような姿も、傷もほころびもありのままに描かれているからこそ、そこにある悲しさ、孤独、無力さに私たちは胸を突かれ、自分自身の弱さや愛の乏しさに思い至るのです。私たちに愛を教えようと、かくも小さく、傷ついた者の姿をとって語りかけられる主の前に、傲慢な自我が砕け散ります。ワンゲリンは、傲慢で時には冷淡な自分自身の姿をも、偽りのない筆致で描き、心砕かれる様もつぶさに語っています。

 この、小さな者にじっと眼をとめ、真実を見通す観察眼に、主の澄んだまなざしが重なります。罪や渇きのをすべて見抜きながらも、憐れみを湛(たた)えた主のまなざしにたましいが射抜かれるとき、私たちは御前に進み出て赦しを請うほかありません。物語を共に生きるなら、私たちもまた、このまなざしの前に立たされるでしょう。

 とは言え、訳語の選択を間違えれば、ことばひとつで読者の傷に塩をすり込むことにもなりかねません。自分の心の傷には敏感でも、他者の傷には疎(うと)く、指摘されなければ気づかない心の鈍い者なのです。読者のたましいに寄り添って、痛みを負うことができますように、仕えることができますように──と祈り巡らすうちに、一人ではなく、主の愛のうちに共に生かされているという思いが深まるのでした。

 文筆活動や翻訳作業は、交わりとは無縁なものと思いこんでいましたが、それは取りも直さず、私自身の霊的な限界にすぎませんでした。あらゆる営みにおいて、主とのコミュニケーション、兄弟姉妹との交わりを始めることができるのです。ワンゲリンが言うように、私たちがその気になりさえすれば。

 主は囁(ささや)かれます。「私」がどう仕えるか問うのもよいが、「私たち」が共に仕えることを祈り求めなさい。共に天を仰いでごらん。あなた一人で見上げるよりも、はるかに大きく天が開かれるのを見るだろう。

 「私たち──」と祈るように、教えたではないか。