翻訳者の書斎から 5 御国が広がるために
中村 佐知
アメリカ シカゴ在住/アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 カルバリー・テンプル 会員
去年の5月に、私のシカゴの教会のバイブルスタディで「ヤベツの祈り」を学ぶ機会がありました。その頃すでにキリスト教書店ではトップセラーリストのナンバー1として『ヤベツの祈り』が店先に平積みにされていましたが、私が実際にこの本の内容について知ったのはこの時が最初でした。
この「ヤベツの祈り」は特に2点において、それまで私が祈りについて教えられていたことと異なっていました。第1に、他者のためにではなくまず自分のために祈るということ。第2に、具体的に祈るべきであり、ただ漫然と「祝福してください」ではだめなのだという考えが多い中、その正反対の祈りであるということ。牧師は私たちに「あなた方はこの祈りをどう思いますか?」と問いかけました。賛否両論の意見が活発に交わされるのをうなずきながら聞いていた彼は、しばらくしてこのように言いました。
「『祝福』の聖書における本来の意味は"possessing God’s favor (神からの恩恵をいただいている)"ということですが、私はそれをさらに具体的に、次のように定義したいと思います。すなわち祝福とは、『わたしはある(I AM WHAT I AM)』というお方であり、この全地宇宙の全てを造られた全知全能なる神の御臨在と超自然的な御介入を、自分のいのち(人生)において持つことである、と。」
この「祝福」の定義は、私にとって画期的なものでした。造り主であり、癒し主であり、いと高きお方であり、備え主であり、全能の主であり、義なる主であり、羊飼いであり、平安であり、勝利の旗であり、聖め主であり、主の主、王の王である神様の御臨在と御介入を私の人生において持つこと……そんなすばらしいことが他にあるでしょうか? これ以上に私にとって必要なものが他にあるでしょうか?
私はこの日以来、「祝福してください!」という祈りを心の底からあふれ出すように貪欲に祈るようになりました。神様の祝福を何が何でも私の人生のなかに欲しいと思ったからです。
それから約2ヶ月過ぎたある日のこと、いのちのことば社の出版部の方からメールをいただき、『ヤベツの祈り』の翻訳の依頼を受けました。それまで本格的な翻訳の働きはしたことがなかった私でしたが、神様の御臨在と御介入のもとで地境が広げられたのです。
実を言うと私はその時、第4子を数カ月前に出産したばかりで、しかも約1週間後にイギリスへの転居を控えていました。通常で考えたら翻訳の仕事などとてもできる状況ではありません。しかし神様が広げて下さった地境であるなら、この働きの上には必ずや御手が置かれ、最後まで守られるに違いないという確信がありました。実際、引っ越し前後の目まぐるしい忙しさのなかでも、翻訳の作業は守られ、正味1ヶ月ほどで初稿をあげることが出来ました。自分が訳出する文章から語られる一つ一つのメッセージに支えられ、励まされ、導かれながらの1ヶ月でした。
ところで、著者のウィルキンソン師は「地境」のことを「イスラエルの神を世に知らしめるために自分が持ちうる影響力、責任、機会」と説明しました。つまり家庭、仕事の場、ミニストリー、交友関係、またそこで用いるべく与えられている能力、技術、権限、資源など、それらは全て私たちの領地、地境です。イエス様は「主の祈り」を通して、私たちに「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と祈るよう教えられました。クリスチャンとはこの地上においてすでに神の御国に生きている人のことだと思うのですが、自分の人生においてイエス様を王とし、その主権にゆだね従う歩みをするならば、そのような人の地境が広がるとはまさにこの地上で神の御国が広がっていくことではないでしょうか?
ですから私たちもヤベツと共に、さらなる祝福を求め、地境を広げていただくよう求め、御手が私たちの上に置かれることを求め、災いから遠ざけられることを求め続けようではありませんか。それは、人の目から見た「成功者」になり世の「繁栄」を手にするためにではなく、私たちが神様の御臨在のうちにいつもとどまり、やることすべてのうえに神様の御介入があり、それによって私たちのいのち、人生を通して、神様御自身にご栄光が帰されるためです。
これは神様からの招きでありチャレンジです。『ヤベツの祈り』を手にされる方々がこの招きに応じ、御国の拡大のためにさらに大胆に祈る者とされますように。
ヤベツの祈り
The PRAYER of JABEZ B6変 1,000円+税 |
「聖書」の中にただ一度だけ登場する謎の人物ヤベツ。 |