翻訳者の書斎から 6 御父のご栄光のために

中村 佐知
アメリカ シカゴ在住/アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 カルバリー・テンプル 会員

 去年の秋頃のことです。子どもの学校の送り迎えに通る道をいつものように歩いていたとき、何かが普段と違うことに気づきました。あたりを見回してみると、それまで立派な垣根を形作っていた植木が、どれも根元までばっさりと刈り込まれていました。いくらなんでもここまで刈り込んだら枯れてしまうんじゃないの? そう思ったのを今でも覚えています。その次の週、『Secrets of the Vine』(『ヴァインの祝福』)の翻訳の依頼を受けたのでした。

 『ヤベツの祈り』に最初に出会った時、私は「よくもまあこんなに誰にも知られていないような箇所から一冊の本を書いたものだな」と思いました。一方、本書を初めて手にしたときは、「ヨハネ15章を主題にするとは、よくもまあこんなに語り尽くされたような箇所から今さら一冊の本を書いたものだな」というのが正直な感想でした。しかし読み進むうちに、私のそれまでの理解が「有名な箇所」という先入観にとらわれ、そこで語られている一つ一つの言葉にあまり注意を払っていなかったことに気づかされたのです。同じぶどうの木につながる枝でも、実りの豊かさには違いがあり、いくつかの段階があること。農夫である御父は、実りの段階に応じた入念な手入れをなさり、それぞれの枝がさらに豊かな実りを生むようにと育てあげられること。神様が私たちに求めておられるのは、枝の見栄えの良さではなく、生い茂った葉でもなく、良質の実の豊作であるということ。そして何よりもこの実りは、単に私たちにとって益となるだけでなく、それによって神様ご自身がご栄光を受けられるということ……、どれも私にとっては目からウロコが落ちるような洞察でした。

『ヤベツの祈り』では、神様が私たちに与えようとしておられる祝福のあまりのスケールの大きさに圧倒される思いでしたが、『ヴァインの祝福』では逆に、神様が私たちに求めておられるもののスケールの大きさに圧倒されました。私たちは、ほんの少しだけ求め、ほんの少しだけ捧げてそれで満足してしまうことに慣れきっていたのでしょうか。それを慎み深い謙遜な生き方だと勘違いしていたのでしょうか。イエス様が弟子たちに、そして私たちにお与えになった「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)という大宣教命令は、神様の御思いの大きさを如実に現わすものではなかったでしょうか。時間にも空間にも何ものにも制限されることのない大いなるお方が、御自身の豊かさを私たちに余すことなく注ぎ込み、あふれ出るばかりにして下さろうとしているのです。豊かに実を結ぶとは、特別なタラントを与えられた人たちだけの特権ではなく、全ての神の子どもたちに神様が求めておられることだったのです!

 ウィルキンソン師は、このような真理をただ観念的に説くのではなく、実際に私たちがそれを自分のものにすることが出来るように具体的な示唆を与えてくれました。罪の悔い改め、御父の刈り込みに自らを委ねること、そして御父との愛の関係のなかにとどまること。それらのことが、より豊かに実を結ぶためにという目的との関わりのなかで明確に語られているのです。

 今日もいつもの道を歩いていると、あの根元まで刈り込まれていた植木が若く元気な枝をたくさん出し、柔らかい青々とした葉を陽の光に輝かせているのを見ることが出来ました。ぶどうではないので実はならないのでしょうが、刈り込みがこの植木に新しい命を注ぎ込んだことがよくわかります。歩きながら、御父が熟練した農夫であられるということにもう一度思いを馳せつつ祈りました。

 今、私にあてられている愛の鋏にもこの身を差し出します。余分な小枝も、見かけばかりの葉も、全て刈り落として下さい、あなたが願っておられるような収穫を私が生むようになるために。主イエス様につながり、とどまり、そのいのちの樹液によって生かされるものとしてください、それによってあなたに全ての栄光が帰されるために……。

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

ヴァインの祝福
SECRETS of the VINE

ブルース・ウィルキンソン
中村佐知訳

B6変 1,200円+税

「ぶどうの木(ヴァイン)」であるイエスにつながることによってのみ、私たち「枝」は、豊かな実を結ぶことができる。
ヨハネの福音書15章から、さらなる祝福の奥義を語る。