自分にぴったりのディボーション書を見つけよう! ■朝静かに ―ディボーションのすすめ

榎本 恵
アシュラム・センター主幹牧師

「朝の十五分があなたを変える」
これが私たち「アシュラム運動」の朝のディボーションの合いことばです。朝めざめたとき、まずみことばに聴き、祈る。まだ暗いうちに一人起きだし、昨日の続きの聖書を読み、祈る時を持つのです。聖書日課を使う人もいるでしょう。賛美を歌う方もおられます。霊的書物をひも解くこともあるかもしれません。場所も、寝室であったり、書斎であったり、台所であったりするでしょう。いずれにせよ、主との交わりの時を続けておられる方は、朝のディボーションの大切さを知る人です。
私は以前、ある方のお宅に招かれ、毎朝の密室の祈りの部屋に案内されたことがあります。小さな部屋には、文机があり、そこに一冊の聖書と私の父の『一日一章』が置かれていました。
「祈るときには、奥まった部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6・6) 
これは、山上の説教で主が命じられたことです。朝のディボーションの時間とは、まさにこの隠れたところにおられる父にお会いするときなのです。けれども隠れたところにおられる父は、同時に「隠れたところを見ておられる主」(新共同訳)でもあります。
私は長い間、この隠れたところを見ておられる主が大変怖い存在でした。外ではいい格好をしているけれど、内側は醜く、罪深い自分。隠れたところを見られたら、もうどうしようもないではないか。そんなふうに思っていました。ところがある日、ハッと気づいたのです。隠れたことを見ておられる主は、私でさえも気づいていない私を知っておられる方である、と。
自分は愚かな罪深い者であるなどと言ってみても、それは所詮、自分の気づいている自分に過ぎない。ほんとうの隠れたこととは、神様だけが知っておられる。そう思えたとき、「隠れたことを見ておられる主」の刺し貫くような厳しい瞳が、愛にあふれた優しいまなざしに変わって見えてきたのでした。毎朝のディボーション、それはこの主のまなざしに出会うことなのです。
「朝静かに この一日の御恵みを祈りおれば わが心にあふれくる 主イエスにあるやすらぎ」(水野源三詩/新聖歌三三四番) この詩を書かれた水野源三さんは、重い障害を抱え、四十七歳で天に召されました。その人生は短く、普通に考えるならば悲しい不幸な人生であったと片付けられてしまうものでしょう。しかし源三さんは違いました。彼は信仰に導かれ、聖書を読み、祈りました。瞬きをすることで、文字を伝え、お母さんと二人三脚でたくさんの心打つ信仰の詩を作ったのです。
短い人生の中で四冊の詩集を作り、今も多くの人々によって愛され、その死後も本や歌が多数作られています。その源三さんもまた、朝の祈りの人でありました。自分一人では、体を動かすことができず、横になれば横になったまま、座れば座ったままの一日。しかし彼は、その小さな小さな世界にいながら、朝静かに大宇宙の創造者である、隠れたところにおられる主と親しく交わり、隠れたことをみておられる主によって報われたのです。
「朝の十五分があなたを変える」
あなたも変えられます。朝の祈りのときを持ちましょう。

『ちいろば牧師の一日一章
新約聖書篇』 榎本保郎 著
A5判 312頁 2,100円