自由が“ふつう”じゃなくなる日 時代はめぐりめぐって

岡田 明
都立高校教諭・主都福音百合ヶ丘教会会員

 ボクが小学生だったころ、池袋の西武デパート前では、まだ傷痍軍人がハーモニカを吹き、施しを求めていた。白い清潔な服なのだが、その体からは今にも赤い血がにじみ出てきそうで恐かった。みんなが豊かさを求め、モーレツに走っていた高度経済成長期。“お国のために負傷”した人に目を留める通行人は少なかった。

 一九八一年、大学生になった。かつて学園紛争があったというが、その形跡はゼロ。きれいな女の子たちが闊歩するキャンパスは、なんとなくクリスタルだった。受験戦争から解放され、ボクは自由を得たと思った。大学では戦前から戦中の日本の教会史を卒論にした。ショックな事実も多かったが、同じようなことが繰り返されることはないだろうと思った。

 大学卒業後、高校の教員になった。ほどなく第二次ベビーブーム世代の入学とバブル景気が訪れ、日本の繁栄は続くのかなと思った。しかし、それらはあっけなくついえた。リストラ・倒産の嵐が吹きあれ、粉飾・偽装が横行。モラルは霧消した。正直に地道にがんばれば、安定した豊かな未来があるという“約束”もこの国から消えた。がんばって勉強する意味を見いだしにくくなった学校で授業崩壊・イジメ・不登校が増え、社会にニート・フリーターが増えたのはこのような時代背景も大きい。

 経済的豊かさを分配できず、階層化し、不安定になった社会状況に対して、国は対策を迫られている。そしていろいろな政策を行っている。しかし今、ボクはこの国の動きの中に“コワイ”ものを感じている。ボクは“国”というものをことさら意識することなく生きてきた。国はボクのまわりにある空気や大地であり、命令したり、圧迫する “意思をもった存在”ではなかった。しかし、今、ボクは国の強い“意思”を感じる。ボクが勤めている都立高校では、教員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなければ処分される。起立・斉唱は“命令”なのである。このような意志は生徒へも及ぼうとしている。国は学校を支配し、国民をある方向に向けて従わせていきたいようである。そのためにはそれを阻む精神で成り立つ教育基本法は邪魔ものであり、“改正”が必要になる。

 共謀罪は“やった行為”ではなく、“心の中で何を考えたか”が犯罪の対象とされる驚くべき法律である。運用によっては思想や信仰を取り締まることが可能になる。自民党の憲法“改正”案は、自由を“公益および公の秩序に反しない限りにおいて”と制限しているため、このままでは礼拝や信仰告白、そして様々な自由や権利は条件つきになってしまう。大学でボクが感じた自由は、どうやら豊かな時代が与えたつかの間の休憩時間だったようだ。自由はすでに“ふつう”じゃなくなりつつある。

 考えすぎだ、いろいろな考え方がある、よくわからない、信仰とは関係ない、どうせ流れは止められない……とあなたは言うだろうか。ボクの耳にはあのハーモニカの哀しい音色が聞こえてくる。“お国のために負傷”するか、それとも主の民として“イエスさまのために負傷”するか、どちらを選ぶか問われる時代にボクは今、立っていると思う。